名和幼稚園の南の道路沿いの城址碑
東上州で勢力を誇った那波氏の居城
別名
堀口城
所在地
群馬県伊勢崎市堀口町
伊勢崎市立第二中学校(堀口町237-1、電話0270-32-0047)の西側で、名和幼稚園(堀口町260、電話0270-32-
2080)の南の道路脇に城址碑
形状
平城
現状・遺構等
現状:伊勢崎第二中学校、田園、宅地等
遺構等:石碑のみ
満足度
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訪城日
2009/02/08
歴史等
大江広元の三子(或いは養子)政広が源頼朝に那波郡を封ぜられ那波氏を称したと伝えられる。那波(なは)城は、天文年間
(1532~54)に那波宗俊によって築かれた。
弘治元年(1555、天文15年・1546説もある)、宗俊は厩橋城主長野賢忠らと共に金山城の由良成繁を攻めたが、
境城主小柴長光の離反により敗死した。
永禄2年(1559)、上杉謙信は那波城を攻略して北条高広を置いた。高広は、その後厩橋城代となって移った。
その後、那波宗俊の甥顕宗(堀口駿河守)が、上杉謙信死後の混乱に乗じ、那波城を奪還したが、天正16年(1588)
後北条氏に城を攻略され、再び浪々の憂き目を見、天正18年(1590)奥州九戸の戦で討死し滅びた。
後北条氏は、この城に大和晴親を置き、その後築井秋教が守ったが豊臣勢に降った。
天正18年(1590)後北条氏滅亡後、関東に移った徳川家康は三河大給城主松平家乗に那波1万石を与え、
那波城主としたが、慶長6年(1601)正月に美濃岩村に2万石で移封となった。
代って、川越に5千石を領する酒井忠世が加増され1万石で入封したが、元和2年(1616)3万2千石で伊勢崎へ転封した。
寛永14年(1637)酒井忠能が2万2千石で入封したが、寛文2年(1662)信濃小諸へ転封し、
那波藩は廃藩となった。
『「群馬の古城・山崎一著(あかぎ出版刊)」、「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」他より』
現況・登城記・感想等
那波(なは)城は、耕地整理により跡形もなく消滅し、伊勢崎市立第二中学校の西側(名和幼稚園の南)の道の片隅に「那波城址 本丸跡」
の碑が立つのみである。
ただ、縄張図を見ると、この辺りは城内ではあるが本丸跡ではないようだ。本丸跡は、この北東の方になる。
(2009/02/08訪れて)