九戸政美は南部氏に叛逆し九戸城に籠城するも、秀吉派遣の大軍に落城
別名
福岡城
所在地
岩手県二戸市福岡城の内
形状
平山城
現状・遺構
現状:国指定史跡(公園化)・宅地・墓地・畑等々
遺構等:本丸・二の丸・松の丸の郭跡、石塁、土塁、濠、石碑、陶板、説明板
【国指定史跡】
指定日:昭和10年6月7日
指定理由:規模雄大な中世平山城の特徴をよく残す城で、豊臣秀吉による全国統一最後の決戦場である。
面積:21万1,000㎡
満足度(10点満点)
9点
訪城日
2002/03/24
2007/08/13
歴史等
九戸城の築城年代については資料がなく不祥であるが、九戸光政が明応(1492~1501)の頃に築城したと推定されている。
戦国時代の北奥羽地方は、群雄割拠の状態で、秋田氏、戸沢氏、小野寺氏などの武将がひしめいていたが、中でも三戸城主の南部氏は、
現在の岩手県、青森県にかけて広大な領土を保持していた。三戸南部24代目当主南部晴政は、名将として名高く、
戦国大名としての南部氏の地位を確立させた。
しかし晴政が天正10年(1582)病没すると(没年には諸説あり)、家督相続をめぐって争いが起こり、南部氏は分裂状態になる。
九戸光政から4代後の政実は、実弟の実親を擁立しようとするが、反対派の推す晴政の養子・信直が当主に迎えられたことに不満をいだいた。
そして天正19年(1591)3月、政実は独立を策し南部氏信直に叛逆した(九戸の乱)。
これに対し苦戦を強いられた信直は、豊臣秀吉に援軍派遣を求めた。信直は、早くから秀吉に接近し、南部領の支配を公認されていたのである。
要請を受けた秀吉は、軍を派遣することとなった。天正19年(1591)8月、豊臣勢は九戸領に侵攻し、九戸方の城は次々と落とされ、
抵抗を続けるのは政美以下5千が籠る九戸城のみとなった。
そして城は、蒲生氏郷・浅野長政・堀尾吉晴といった秀吉直属の部将をはじめ徳川家康の部将井伊直政や南部信直、小野寺義道、戸沢政盛、
秋田実季といった地元奥羽の大名などが率いる3万余の兵によって包囲された。
奮戦するも謀略により九戸城は落城した。落城後、秀吉の命により蒲生が普請し直し、信直は三戸城から九戸城に移り、
修築を施して居城としていたが、その子利直の時に盛岡城に移り、
寛永13年(1636)に廃城となった。
『「日本名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「図説・日本の史跡6(同朋社刊)」参照』
【九戸の乱の時の陣】(現地説明板より) ~クリックにて拡大画面に~

現況・登城記・感想等
想像をはるかに超えた、非常に大規模な城跡で、しかも掘跡・土塁・石垣等々の遺構や城郭の姿もがかなり残っており感激した。
遠くから眺める城郭の姿も素晴らしい。今後更に発掘されていくのであろうと思われるが楽しみである。是非また来たいものである。
(2002/03/24訪城して)
5年半ぶりの登城である。馬渕川・白鳥川の断崖を利用した規模の大きな城は、現城址の外側(三の丸や白鳥川の北)から見ても、
その要害堅固な城であることがよく分かり、しかもその姿も素晴らしい。その上、曲輪・土塁・堀も良好に残り、
さらには東北には珍しい石垣もかなり使われ、散策には最高である。さすが、九戸の乱後に蒲生氏郷が改築した城である。
前回は、発掘及び整備中で全て土が掘られた状態の九戸城址であった。土の城址も悪くはないが、芝生がきれいに張られた城址は、
さらに美しさが増して見える。
ただ今日は、30度を遥かに超す、真夏の炎天下の散策で、さすがにちょっとバテタ~!!
それでも満足するくらい相変わらず素晴らしい城址でした。
(2007/08/13登城して)
ギャラリー
㊧大手門前の土橋と、㊨堀

大手門から二の丸(手前)と本丸(土塁奥)を

本丸追手門へ架かる橋

本丸内堀

本丸内堀(前回2002/03/24の登城時)

㊧本丸追手門跡と、㊨その土塁石垣

本丸追手門跡(前回2002/03/24の登城時)

本丸跡

本丸跡(前回2002/03/24の登城時)

本丸の井戸(本丸虎口付近に)

本丸虎口

本丸虎口(前回2002/03/24の登城時)

本丸・二の丸間の土塁と堀

本丸・二の丸間の土塁と堀(前回2002/03/
24の登城時)

搦手門跡

㊧搦手門跡から石沢館跡を、㊨石沢館南側下の堀


