陸中 盛岡城(盛岡市)

(右から)三の丸~二の丸~本丸~淡路丸の高石垣を望む

名門南部氏20万石の本拠

別名

不来方城(こずかたじょう)

所在地

岩手県盛岡市内丸1−37

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】 盛岡城跡公園(岩手公園)(8.6ヘクタール)
【遺構等】 曲輪、石垣、土塁、水堀、井戸、碑、説明板

【国指定史跡】
指定日:昭和12年4月17日
指定理由:近世城郭の威容をとどめ、重要な城跡
面積:8万6,451㎡

満足度

★★★★

訪城日

2001/04/28
2018/10/13

歴史等

盛岡藩主の南部家は、甲斐源氏の末裔で、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光の分かれだという。甲斐巨摩郡南部郷(山梨県南部町)にいて南部を姓とした。南部氏は、源頼朝の奥州平泉藤原氏征伐の戦功により岩手・青森辺りを領有してきた。
戦国時代になって継嗣問題から一族で争いが起こり、この機に乗じて津軽為信、九戸政実が離反する問題も起こった。天正17年(1589)豊臣秀吉による小田原征伐が開始されると、津軽氏は南部氏より先に参陣し津軽地方領有の朱印状を受けてしまい、南部氏は津軽地方の領地を失ってしまった。
天正19年(1591)、「九戸の乱」が起こると秀吉は奥州仕置軍を送り鎮圧した。この時の戦功により南部信直は3郡を加増され10万石を領することになった。
信直は、奥州仕置の戦後処理にあたった蒲生氏郷、浅野長政にそれまでの居城三戸城から領国経営に向いた不来方の地に築城することを進言され、不来方に新城を築き始めた。しかし、盛岡城のほとりを流れる北上川や中津川はたびたび氾濫し、城の石垣を押し流してしまう難工事で40年もの歳月を要し、信直の死後、嫡子利直に引き継がれた寛永10年(1633)に完成した。この不来方が盛岡城である。
南部氏は、その後、関ヶ原の戦時を無事乗り切り20万石の大名となった。盛岡藩2代重直の死後、盛岡と八戸の2家に分かれるが、14代続いて明治に至った。南部氏は鎌倉時代の御家人以来、同じ領地を維持してきたが、これは薩摩の島津氏、人吉の相良氏以外にはない。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「大名の日本地図・中嶋繁雄著(文春新書刊)」参照』

【九戸の乱】
九戸政実は、南部晴政・晴継が相次いで没した後、三戸南部氏の惣領に実弟の実親を擁立しようとするが、反対派の推す晴政の養子・信直が当主に迎えられたことに不満をいだいた。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置後、各地で領地を没収された各氏の遺臣が一揆を起こし不穏な情勢になると、政実もそれに乗じて天正19年(1591)3月、独立を策し南部氏信直に叛逆した(九戸の乱)。
信直は、これに対し苦戦を強いられたが、秀吉の送った奥州再仕置のための浅野・蒲生軍が到着すると各個撃破され、九戸城も蒲生氏郷率いる大軍により囲まれた。奮戦するも謀略により九戸城は落城した。

現況・登城記・感想等

盛岡城への登城は三度目ですが、じっくり廻るのは今回が初めてです。
盛岡城は、その石垣の見事さから、白河小峰城、会津若松城と並んで東北三名城の一つに数えられています。
白御影石を整然と積み上げた石垣は、全てが見事ですが、中でも、城跡南東の多目的広場から眺める三の丸から二の丸、本丸、淡路丸へと延びる高石垣は、当城の最大の見どころでしょう。これまでの二度の短い時間での登城でもこの姿だけは見ましたが、何度眺めても素晴らしい光景です。
また、本丸と二の丸間の堀切も、近世の城としては珍しく、なかなかの見ものです。
今回は、時間がたっぷりあったので二時間近くかけて廻ることが出来てすっかり満足しました。
ただ、一つ残念なのは、城址としての解説・案内が極端に少ないことです。門跡や櫓跡にも説明がなく、あるのは各曲輪の石碑だけで、あんまり城ファンには親切とは言えません。
尚、ついでに裁判所前の石割桜も見ることができました。勿論、季節的に花は咲いてはいませんが、その迫力は充分伝わり、それなりに満足デス。
(2018/10/13登城して)

ギャラリー

【盛岡城縄張図】 (現地説明板より) ~画面をクリックにて拡大~
盛岡城は、旧北上川と中津川が合流する古来より不来方と呼ばれる丘(河岸段丘)に築かれた連郭式平山城で、城跡は、現在、盛岡城跡公園(岩手公園)として整備されています。
盛岡城縄張図
 

【盛岡城中核部全景】  ~画面をクリックにて拡大~
盛岡城の白御影石を整然と積み上げた石垣は、全てが見事ですが、中でも、城跡南東の多目的広場から眺める三の丸から二の丸、本丸、淡路丸へと延びる高石垣は、当城の最大の見どころでしょう。これまでの二度の短い時間での登城でもこの姿だけは見ましたが、何度眺めても素晴らしい光景です。
盛岡城全景

【登城記】
今回は、盛岡駅から「でんでんむし」という盛岡市内循環バスで行きました。「でんでんむし」は、盛岡市内を右回りと左回りで、どこまで乗っても100円で乗れ、しかも15分おきに走っているそうで便利です。
盛岡城跡公園で降りて、三の丸跡から登城することにしました。

【三の丸跡周辺】
(三の丸北角の石垣)
三の丸虎口へ向かって行くと、早速、三の丸北の高石垣が見えてきます。
三の丸北角石垣

(瓦門跡)
三の丸への虎口「瓦門」は枡形になっています。尚、盛岡城の建造物はほとんどが板葺でしたが、この門は珍しく瓦葺であったようです。
三の丸虎口

(櫻山神社と烏帽子岩)
瓦門脇には、南部家初代藩主南部光行、26代藩主(初代盛岡城主)南部信直、27代藩主(2代盛岡城主)南部利直、36代藩主南部利敬(10代盛岡城主)を祭神とする櫻山神社が鎮座しています。そして、その裏山(三の丸)には烏帽子の形をしたどでかい岩「烏帽子岩」が聳えています。
桜山神社と烏帽子岩

(烏帽子岩)
現在の櫻山神社の場所には、もと八幡社が鎮座しており、その傍らに三角状の岩がありました。この場所の高さが二ノ丸とほぼ同じであったので、2代盛岡城主利直公は地形を削るよう命じられ三角岩の周囲も削られました。しかし、岩の根は深くやがて烏帽子に似た巨大な岩石が出現しました。利直公は、これを瑞兆と慶び「八幡社の重宝」として崇められました。それ以来、「盛岡藩の守り岩」として歴代城主に崇め祀られてきました。
烏帽子岩

(三の丸跡へ)
瓦門から入城すると三の丸の中央部へ経ます。写真右側の石垣造の桝形が二の丸への虎口の車御門跡で、その左にある画像中央の道を下ったところ不明門跡で、左に行くと烏帽子岩や三の丸井戸跡などがあります。
三の丸

(車門跡と不明門跡)
車御門跡(写真右)は三ノ丸と二ノ丸を繋ぐ門で、緩やかな登り坂になっており、桝形が設けられています。不明御門跡(写真左)は、三ノ丸から淡路丸・御台所屋敷に抜ける門跡ですが、二の丸下(写真手前)から本丸(写真の最奥の出っ張った部分)へ延びる石垣は見応えがあります。
車門と不明門

(不明御門跡脇の巨岩)
不明門脇には、天然の巨岩が地表に露出していて、それを避けるかのように石垣が組まれています。
不明門脇の巨岩

【二の丸跡周辺】
車門跡を入って行くと二の丸跡です。二の丸跡には石川啄木歌碑や新渡戸稲造記念碑などが立っていますが、簡単に見ただけで、写真正面奥に見える朱塗りの橋の向こうにある本丸跡へ向かいます。
二の丸

(渡雲橋)
二の丸から本丸へは、本丸と二の丸間を断ち切る堀切に架かる朱塗りの橋「渡雲橋」を渡って行きます。
渡雲橋

(本丸と二の丸を断ち切る堀切)
このような堀切は、近世の城郭では珍しいのではないでしょうか。他に思いつくのは彦根城くらいかなあ?尤も、どちらも戦国時代末期から築き始められた城だからでしょうかねえ。
本丸と二の丸間の堀切

本丸(東隅櫓台上)から堀切越しに二の丸を見下ろす
堀切越しに二の丸を

【本丸跡周辺(本丸・淡路丸・腰曲輪etc)】
(本丸と淡路丸の高石垣) ~多目的広場から撮影~
本丸と淡路丸石垣

(本丸上) ~本丸東隅櫓台上から撮影~
本丸は60m四方ほどの、ほぼ正四角形で、その下には淡路丸などの腰曲輪が設けられています。また、本丸上に特に復元されたりしているものはありません。
本丸

(御末門跡)
淡路丸から本丸への門跡で、枡形虎口になっています。また、かなりの急坂になっています。
本丸枡形虎口

多聞櫓跡
写真奥が多聞櫓台で手前部分は東隅櫓台です。
本丸多聞櫓跡石垣

(御二階櫓跡)
二階櫓

天守台(御三階櫓跡)
この字型に石垣が積まれており、穴蔵形式の天守台だったのかと思いましたが、どうやら手前の石垣は御末門の片側の石垣で、右奥の石垣が天守台(御三階櫓)石垣のようで、高さはせいぜい2m弱ほどしかありません。
天守台

(淡路丸跡)
本丸の南東側に位置する腰曲輪です。
淡路丸

吹上馬場跡(本丸南西の腰曲輪)
本丸南西側に位置し、淡路丸とも繋がっています。ここには馬場の他、宝蔵や、隅には二層櫓が建てられていました。
腰曲輪

(宝蔵跡)
宝蔵跡

(本丸南西下の馬場から本丸への石段)
本丸南西部下の馬場から本丸へ登る石段は、南東側と南西側の両側から登れ、本丸上にて合流するように造られています。
腰曲輪から本丸への石段1

腰曲輪から本丸への石段2

(吹上門跡)
城の西側からの入口です。
吹上門

(淡路丸南西隅の高石垣)
淡路丸の南西角は折れを設けて、死角をなくし、敵を石垣上から殲滅できるような仕組みになっています。また、見た目にもかっこいいですね。
淡路丸南隅の石垣の折れ

(彦御蔵)
江戸時代末期に建てられたといわれている土蔵で、城内に残る唯一の建築物で、諸道具を納めていたと考えられています。
この蔵はもともと現在地よりも100メートルほど西側に存在していましたが、道路の拡幅工事にともない、かつて「米内蔵」があった場所に移設されています。
IMG_1086

【堀】
かつての北上川(北上古川)は湾曲しながら盛岡城の西側付近を流れ、南側で中津川と合流していました。この合流地点の浸食段丘上に築城されたのが盛岡城です。城を挟む2つの川を外堀とし、さらに城内の堀、重臣が居住する外曲輪、その外に諸士や町人街の遠曲輪という三重の塁濠によって守られていました。
現在も、内堀跡の鶴ケ池・亀ケ池が残っていますが、これらは中津川から水を引いています。尚、桜山の鳥居を挟んで、西側が「亀ケ池」、東側が「鶴ケ池」と名付けられています。
(中津川)
中津川

(鶴ケ池)
淡路丸の南東下の帯曲輪から撮ったもので、橋の左側はかなり広くなっており、右側は徐々に細い水路になっていきます。
鶴が池

上写真の橋の上から撮ったもので、多目的広場の南東側の鶴ケ池です。
鶴が池1

公園外の下曲輪の周囲をめぐる堀で、当写真は下曲輪の南東側の鶴ケ池です。尚、下曲輪は完全に宅地化されています。
鶴が池3

(亀ケ池)
外曲輪の北西の亀ケ池ですが、全体が蓮で埋まっています。
亀が池

今回の登城時に最初に見た堀跡で、三の丸の北東の亀ケ池です。盛岡城の中で最も堀らしい堀ですネ。
亀が池2

【番外編】
(石割桜)
盛岡城跡公園から近い裁判所内の石割桜も見ることができました。勿論、季節的に花は咲いてはいませんが、その迫力は充分伝わり、それなりに満足しました。とはいえ、いつか満開時に訪れたいですね。
石割桜

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