陸中 盛岡城(盛岡市)

二の丸石垣を望む

名門南部氏20万石の本拠

別名

不来方城(こずかたじょう)

所在地

岩手県盛岡市内丸

形状

平城

現状・遺構等

現状:岩手公園(8.6ヘクタール)
遺構等:曲輪、石垣、土塁、水堀、碑、説明板

【国指定史跡】
指定日:昭和12年4月17日
指定理由:近世城郭の威容をとどめ、重要な城跡
面積:8万6,451㎡

満足度

★★★★☆

訪城日

2001/04/28

歴史等

盛岡藩主の南部家は、甲斐源氏の末裔で、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光の分かれだという。甲斐巨摩郡南部郷(山梨県南部町) にいて南部を姓とした。南部氏は、源頼朝の奥州平泉藤原氏征伐の戦功により岩手・青森辺りを領有してきた。
戦国時代になって継嗣問題から一族で争いが起こり、この機に乗じて津軽為信、九戸政実が離反する問題も起こった。天正17年(1589) 豊臣秀吉による小田原征伐が開始されると、津軽氏は南部氏より先に参陣し津軽地方領有の朱印状を受けてしまい、 南部氏は津軽地方の領地を失ってしまった。
天正19年(1591)、「九戸の乱」 が起こると秀吉は奥州仕置軍を送り鎮圧した。この時の戦功により南部信直は3郡を加増され10万石を領することになった。
信直は、奥州仕置の戦後処理にあたった蒲生氏郷、浅野長政にそれまでの居城三戸城から領国経営に向いた不来方の地に築城することを進言され、 不来方に新城を築き始めた。しかし、盛岡城のほとりを流れる北上川や中津川はたびたび氾濫し、 城の石垣を押し流してしまう難工事で40年もの歳月を要し、信直の死後、嫡子利直に引き継がれた寛永10年(1633)に完成した。 この不来方が盛岡城である。
南部氏は、その後、関ヶ原の戦時を無事乗り切り20万石の大名となった。盛岡藩2代重直の死後、盛岡と八戸の2家に分かれるが、 14代続いて明治に至った。南部氏は鎌倉時代の御家人以来、同じ領地を維持してきたが、これは薩摩の島津氏、人吉の相良氏以外にはない。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「大名の日本地図・中嶋繁雄著(文春新書刊)」参照』

【九戸の乱】
九戸政実は、南部晴政・晴継が相次いで没した後、 三戸南部氏の惣領に実弟の実親を擁立しようとするが、反対派の推す晴政の養子・信直が当主に迎えられたことに不満をいだいた。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置後、各地で領地を没収された各氏の遺臣が一揆を起こし不穏な情勢になると、 政実もそれに乗じて天正19年(1591)3月、独立を策し南部氏信直に叛逆した(九戸の乱)。
信直は、これに対し苦戦を強いられたが、秀吉の送った奥州再仕置のための浅野・蒲生軍が到着すると各個撃破され、九戸城も蒲生氏郷率いる大軍により囲まれた。 奮戦するも謀略により九戸城は落城した。

現況・登城記・感想等

大学3年の時に一度来たことがあるが、その時の印象は、石垣が綺麗だったということだけが記憶にある。
20万石の城の割には決して広くはないが、盛岡城は、その石垣の見事さから、会津若松城 白河城と並んで東北の三名城址とも言われるだけあって、本丸・二の丸・淡路丸・三の丸と城の中核部は、高々と石垣が築かれ、 今回の訪城でも石垣の素晴らしさに魅入られた。
盛岡城には、明治6年(1873)に破却されるまで3層の天守もあったとのことである。
(2001/04/28登城して)

ギャラリー

二の丸石垣

二の丸東面の石垣

未門跡(淡路丸から本丸への虎口となる)

城内にある南部稲荷神社の宝大石「烏帽子岩(えぼしいわ)」
盛岡城築城時、この地を掘り下げたときに、大きさ二丈ばかり突出した大石が出てきた。 この場所が境内の祖神さまの神域にあったため、宝大石とされ、以後吉兆のシンボルとして広く信仰され災害や疫病があった時など、 この岩の前で平安祈願の神事が行われ、南部藩盛岡の「お守り岩」として今日まで崇拝されている。
 

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