陸奥 八戸城(八戸市) 

三八城公園入口にたつ石碑

南部重直が後継を定めず没したため、弟直房に八戸2万石を与えられ分家

別名

三八城、中館

形状

平城

現状・遺構等

現状:三八城公園(中に三八城神社)・市役所・公会堂・市街地等
遺構等:土塁が一部、石碑、説明板

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

2002/03/25

歴史等

八戸城は、建武元年(1334)陸奥国司北畠顕家の国代南部師行が糠部郡八戸に根城を築いたが、 その後間もないころに、その孫信助が支城としてこの地に中館(なかだて)を築いたのが始まりであろうという。この一族は根城・ 中館および新田館に居住し、八戸地方を鎮めてきた。
三戸の南部信直が豊臣秀吉から朱印を受け、その後、盛岡に本拠を置き、南部内七郡を支配するようになった。その子利直は、寛永4年 (1627)に根城南部氏を遠野に移して、八戸を直支配とし、みずから縄張りをして当城および城下町の作事・普請をしたと伝える。
寛文4年(1664)、盛岡3代藩主南部重直が後嗣を定めないまま没したとき、 江戸幕府は遺領10万石を分割し、弟重信に本家盛岡8万石と、 次の弟直房に2万石が与えられ八戸藩が誕生し、八戸城と城下町が本格的に整備された。寛文6年(1666)、直房は八戸城に入り、 それから250年余りにわたり歴代の藩主・賢臣達が文武に励み、農業・養蚕・織布・畜産の振興に努め、領内は豊かになっていった。
『現地説明板を要約』

現況・登城記・感想等

石碑等の案内がなかったら城跡などとは思わず、神社があるただの公園だと思うだろう。
ただ、本丸跡の西側はちょっとした崖になっており、眼下に街並がよく見え、唯一城跡らしき風情があるかな?
(2002/03/25に訪城して)

ギャラリー

南部直房銅像
後方が西側で、崖下に街並みが見える。

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