本丸(右側)と中館を断ち切る大空堀
奥州における南朝方の中心・南部師行が築城、今も広大な史跡が残る
所在地
史跡根城の広場:青森県八戸市大字根城字根城47 電話0178-41-1726
八戸市博物館:青森県八戸市大字根城字東構35-1 電話0178-44-8111
【アクセス】
車の場合、八戸市博物館を目標に行けばよいと思います。
また、八戸駅から循環バスで(根城)博物館前で降車、すぐそばです。
形状
崖端城(平山城)
現状・遺構等
【現状】 史跡根城広場、畑、宅地他
【遺構等】 本丸跡(主殿を中心に工房・板蔵・納屋・馬屋等が復元)をはじめ中館・東善寺館・岡前館・沢里館等8つの郭跡、堀、土塁、井戸跡、旧八戸城東門、石碑、説明板
【国指定史跡】
指定日:昭和16年12月13日
指定理由:南北朝時代から戦国時代にかけての城郭。郭郭・堀・土塁などの遺存状況が良好で、根城南部氏の居城としての歴史も明らかである。
面積:21万2,795㎡
満足度
★★★★☆
訪城日
2002/03/25
2018/09/12
歴史等
甲斐源氏の一族であった南部氏は源頼朝の奥州征伐の戦功により陸奥国額部郡地頭職に補任された南部光行を始祖とするとされる。 その後裔・南部師行は、建武新政下、陸奥北畠顕家から北奥州の奉行に推挙され、建武元年(1334)、額部郡八戸根城を築城し、拠点とするにいたった。
南部師行は延元3年(1338)、北畠顕家と共に泉州石津(大阪府堺市)で討ち死にしますが、その後も根城は師行の子孫らによって守られ、南部氏の居城として数々の歴史や伝説の舞台となりました。
根城の南部氏は、 南北朝時代には奥州における南朝方の中心的な存在として活躍しており、その領地は、当時糠部郡と呼ばれた広大な地域の中や津軽、 秋田県の比内・仙北・鹿角・岩手県の閉伊・遠野にも認められています。
しかし、南朝方が劣勢になるに従い、 根城の南部氏も次第に勢力が弱まります。
そして、秀吉の時代、根城南部氏は同族の盛岡南部氏の家臣格となり、やがて寛永4年(1627)には遠野城(岩手県遠野市)へ移封となり、根城は廃城となりました。
『案内板&パンフレット他参照』
現況・登城記・感想
根城に前回登城したのは、2002年3月25日なので、何と16年半ぶりです。
当時から、よく整備された城跡公園でしたが、城に対する知識が浅かったせいもあり、ただただ、だだっ広い芝生公園だったという印象しか残っていませんでした。
ところが、今回登城して気が付いたのは、8つもの郭が配置された大掛かりな城跡というだけでなく、多くの空堀や土塁等が良好に現存することに気が付きました。
さて、八戸根城は、馬渕川に臨む比高15mほどの河岸段丘上に被かれています。
縄張は、本丸、中舘(区画)、東善寺館、岡前舘(3区画)、沢里館の8つの郭からなります。
遺構としては、城跡の北側半分(国道104号線の北側)が「史跡根城の広場」として公園化され市民の憩いの広場となっています。本丸跡、中館跡、東善寺館跡、沢里館跡の郭跡や本丸周囲、中館東側、三番堀など幾つもの空堀、館跡の礎石、土塁などが現存しています。
本丸跡には、発掘調査の成果をもとに、主殿、中馬屋、上馬屋、番所、工房、鍛冶工房、野鍛冶場、納屋、板蔵、東門など安土桃山時代の根城の様子が復原整備されています。
また、広場の東端には、元々、根城にあったとされる八戸城東門が移築されています。
尚、根城入口の駐車場前には「八戸市博物館」があります。
(2018/10/12登城して)
ギャラリー
【根城縄張略図(現地説明板より)】
根城の縄張りは、本丸、中舘(区画)、東善寺館、岡前舘(3区画)、沢里館の8つの郭からなり、これら郭の他にも本丸周囲や、中館東側、三番堀などの幾つもの空堀、通路跡、館跡の礎石、土塁などが現存しています。
【根城縄張り図(現地説明板より)】 ~画面をクリックにて拡大~
城跡の北側半分(国道104号線の北側)が「史跡根城の広場」として公園化され市民の憩いの広場となっています。
【南部師行像】
根城跡へは、八戸市博物館を目指して行きます。すると、博物館の手前に南部師行の騎馬像が立っています。根城は、建武元年(1334)南部師行により築城されたと伝えられています。写真左の階段を行くと「史蹟根城の広場」へと出ます。
【旧八戸城東門】
史跡根城の広場への入口には門が建っています。この門は八戸城の東門で、安政6年(1857)の大風で倒れ、家臣の木幡氏の門として建て替えられました。伝承によると、元々根城にあった門を八戸城に移したものだといわれています。(現地説明板より)
【東善寺館東側の大堀切】
東門をくぐると、いきなりこの堀切が現れます。この堀切は地面深く掘りこみ敵の侵入を防ぐてめに造られたもので、国道104号線の南へ延びる三号堀とともに、城の東側を守る重要な施設です。尚、この堀は本丸や中館の堀と並ぶ大きなV字形の空堀です。
(旧八戸城東門をくぐり、右手に東善寺館東側の大堀切を望む)
(旧八戸城東門をくぐり、左手に東善寺館東側の大堀切を望む)
当堀切の先端(南端)の向こう側は国道104号線が通っていますが、国道の向こうにも「三番堀」が現存し、さらに南へと延びています。
【三番堀】
国道104号線を渡ると「三番堀」が確認できます。根城広場部分と較べると整備はイマイチですが、空堀そのものは良好に残っています。ただ、堀の西側の「岡前館」は完全に宅地化され消滅してしまっているようです。
【旧八戸城東門を背にして、写真中央奥の本丸跡に建つ主殿を望む】
旧八戸城東門から入城すると、平坦な歩きやすい園路が本丸まで続き、写真手前付近が東善寺館跡で、その後方が中館跡です。尚、今回は本丸手前の木々の葉っぱが生い茂って本丸(主殿等の建物)が見えないので前回(2002/03/25)登城時の写真を使用しました。
【東善寺跡】
東善寺館跡の北東部には「東善寺跡」がありますが、周囲より一段高い雑木林になっており、30~40墓ほどの墓があります。
(再び東善寺館東側の大堀切を)
東善寺跡の東へ向かうと、先程の大堀切へ出たので、堀底へ下りて写真を一枚。写真左側の博物館側(城外側)は堀底から高さ6mほどあり、東善寺側(城内側)は高さ4mほどで、城外側の方が高いのが珍しいというか防御上どうかと思いますがネエ!?
【通路跡】
再び、園路へ戻り本丸目指して西進すると、浅い堀跡のような地形が現れます。説明板によると、「この通路は、堀を埋め戻した上に砂利などを敷いてつくられました。通路は中央部で広がり二手にわかれますが、この分岐点から中館側(左手)は、掘立柱建物や溝などに壊されており、通路として使われなくなったことがわかりました。もう一方の通路は、下町方向にのびると考えられます。通路の発見は、根城では初めての貴重な例です。」とありました。
【中館】
(中館東側の堀跡)
本丸に向かって園路をさらに西進すると、中館の東側の堀跡が現れます。
この堀はV字型の空堀ですが、現在でも1mほど掘ると水が湧くことから堀底を水が流れていたことも考えられます。堀の規模は、本丸や東善寺の空堀と並ぶ大きなものです。また、城の中央を横切る国道も堀跡であったと推定されています。(説明板より)
尚、左上の建物は中館に建てられた四阿で、堀の奥は下町・馬渕川方面になります。
(中館跡)
パンフレットには家来の屋敷とだけ書かれていますが、多分、上級家臣の屋敷が建っていて、下級武士は、中館の北側下にある下町に住んでいたのではと想像しますが、どうでしょうか?
(中館北端部から下町と馬渕川方面を見下ろす)
(根城航空写真&本丸の模型)
中館の中央部に、根城全体の航空写真と説明、そして本丸の模型が設置されています。
(本丸から中館を見下ろす)
【本丸跡】
本丸周囲は空堀で囲まれています。本丸跡には、発掘調査の成果をもとに、主殿、中馬屋、上馬屋、番所、工房、鍛冶工房、野鍛冶場、納屋、板蔵、東門など安土桃山時代の根城の様子が復原整備されています。
(本丸復元図) ~画面をクリックにて拡大~
(本丸へ)
本丸は柵で囲まれています。本丸へは、園路を右に行き、堀跡に架かる木橋(当写真には写っていません)を渡って左方向へゆるやかに登って行くと東門があり、その先に料金所があります。正面の土橋は行き止まりとなり、本丸内へは入れません。往時は、この土橋は設けられていなかったようです。。
(本丸周囲の空堀と木橋)上写真土橋の右側
本丸内へは、この木橋を渡って行きます。
(本丸周囲の空堀)土橋の左側
(本丸空堀に架かる木橋)
当木橋を渡ってから、左方向へゆるやかに登って行くと本丸内へ入城する東門があります。橋の向こう側(写真やや右上)にも北門がありますが閉められています。
当木橋は、敵が迫って来た時には本丸に渡れないように橋を落としました。尚、現在は手すりが安全の為に設けられています。
(東門)
この東門が現在唯一本丸内へ入れる門です。門をくぐった右手に料金所があります。門の奥に見えるのは納屋です。
(主殿)
当主が特別な来客と会ったり、さまざまな儀式を行うところです。
(主殿の見取図)
建物の中は大きな部屋が規則正しく並んでいて土間の台所のほかは板敷になっています。畳は特別な会見や儀式の時にだけ出して使われたようです。儀式で使う道具や南部家に伝わる重宝もここに納められ大切に管理されていました。
(上馬屋)
当主が所有している馬を繋いでいたところです。南部地方は古くから駿馬の産地として知られていました。その南部駒の中でも、特に優れたものが当主の馬に選ばれました。
(納屋)
東門から入城すると、正面に見えるのがこの納屋です。竪穴式の建物で、茅葺きの屋根が地面近くまで葺きおろされています。この中には、米、味噌、梅漬けなどが入れられたと考えられます。
(奥御殿の柱の復元表示)
この建物跡は、当主の家族が住んでいたところで、先祖の霊も祭られていた。当主は先祖の拝礼や家族の様子をうかがうために、常御殿から通って来ました。写真奥に復元されている建物は、左が板蔵で右が鍛冶工房です。
(常御殿の柱の復元表示)
この建物跡は、当主が寝起きし、領内を治めるための仕事をしていたところ。重臣たちと協議したり、来客と接見するための広間や寝所、従臣の詰所などがあったと考えられる。写真奥に復元されている建物は、左が板蔵で右が鍛冶工房です。
(中馬屋)
来客用の馬を繋いでいた建物です。
(物見と番所)
手前の柱が復元表示されているのが、遠くを見るために櫓があったところで、敵の気配や荷物を積んで馬渕川を行き来する船の様子を高いところから見張っていました。その後ろの建物が番所です。番所は西門を通る人を監視するための番人が詰めていたところです。そして、さらに、その奥の方に見えるのは中馬屋です。
(祭壇跡?)
西門脇のこの土壇は、神様が祭られた神聖な場所と考えられています。
(西門)
本丸の西端部に設けられたこの西門は、いわゆる「搦手門」でしょうか?
(本丸西側の空堀)
本丸周囲を取り巻く柵の西側の柵の間から撮りましたが、曲がりくねった空堀は、なかなか見応えがあります。