陸奥 三戸城(三戸町)

温故館(三層四階の歴史資料館)

南部一族の本拠、九戸の乱後には盛岡城へ移る

別名

留ケ崎城

住所

青森県三戸郡三戸町

形状

連郭式山城

現状・遺構等

【現状】 城山公園・山林
【遺構等】 模擬天守(資料館)、綱御門(復興)、空堀、石垣が少し、土塁、石碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2002/03/24
2007/08/13

歴史等

南部氏の祖は、甲斐南部郷の住人・南部三郎光行である。光行が、文治5年(1189)源頼朝による平泉藤原氏討伐の際の功により陸奥国糠部郡(現在の青森県三戸・上北・下北・岩手県二戸・九戸の各郡にわたる地域)、いわゆる南部領を与えられ、建久2年(1192、年代には諸説あり)一族郎党を率いて甲斐を発ち、八戸に上陸。
そして光行の子息・実光は三戸に居城を構え、一戸四戸七戸九戸にそれぞれ移り住んだ南部一族の棟梁となったと伝えられている。それより永い間、本三戸城(現岩手県南部町)は南部氏の本拠であった。ここは名馬の産地で、軍馬の育成も盛んで、南部光行は牧場経営の便宜上、領地を九つの戸に分け、東西南北に四つの門に分散して配置した(四門九ヶ戸の制度)。
だが、本格的に南部氏が勢力を扶植したのは南北朝時代であると考えられている。南部氏は南朝に与して津軽にまで進出し、室町時代に入ると、足利幕府の支配に従い、その勢力を増大させ、出羽(秋田県・山形県)にまで進出するほどの威勢を誇っていた。そして、南部氏が強大になるにつれて、三戸の南部本家は、九戸氏や一戸氏といった南部氏の庶流を一族としてよりも家臣として支配するようになっている。
天文8年(1539)に謀反を企てた家臣・赤沼備中に放火され、本三戸城が焼失したため、永禄年間(1558~69)に24代南部晴政がやや南西の丘陵留ヶ崎(とどめがさき)に新たに大規模な当三戸城を築き居城とした。晴政は三戸城を拠点にして、領内を固める一方で、南進策をとり、現在の青森県・岩手県をほぼ手中に収めることに成功した。
晴政の死後、南部一族にあって英才の誉れ高い信直が三戸南部氏を相続。信直は九戸政美や大浦為信の反乱に手を焼くが、戦国生き残りレースを勝ち抜き、南部藩祖となった。
天正19年(1591)同族の九戸政美の乱が平定されると、三戸が南部藩領内の北辺に寄りすぎていることもあり、本拠を岩手郡不来方に移すことになり、寛永10年(1633)に28代南部重直が不来方城(盛岡城)を居城と定め、それより三戸城は三戸御古城と称されるようになったが、貞享年間(1684~88)には廃城となった。
『参考資料:「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「現地案内板」』

現況・登城記・感想等

何といっても南部家の元々の本拠地であるからには、それなりの大規模の城なのであろうが、車で上(本丸跡)まで登って行けたことと、あまりにも妙な整備(模擬天守がある等)が進んでいるのであまり感激はしなかった。下からじっくり実存の遺構を見物しながら登ってきたら、山城らしさを感じ取ることができ、また違った感想となるのだろう。いつか機会があったらそうしたいものである。
(2002/03/24に訪城して)


約5年半ぶりに登城した。  
まずは、本丸まで車で。途中、物見櫓跡があり、そこから分かれる登城道(遊歩道)があったが、取り敢えず車で本丸まで。その途中に石垣が一部残っていた。
三戸の歴史にあまり詳しくないので、まずは近世天守閣様式の温故館(三層四階の歴史資料館)に寄ってと思ったら、月曜日で休館。
止むを得ず、その周りを散策(暑かった)することにした。南部藩祖光行を祭る糠部神社の他には、重臣の屋敷跡の多くの標柱があったが、どの重臣も知らない名前ばかり!・・・。するとその中に、私が子供の頃に活躍した「太鼓腹の横綱鏡里」の石碑があり、城とは関係ないが、何かホッとした。
欅御門跡から綱御門へ向かって歩いて行くと、それぞれの郭が塁段になっており、ここも重臣屋敷跡が次々と・・・。
そして、武者溜りの奥、最下段に石垣と建物が見えてきた。復元綱御門であった。大きくはないが綺麗な枡形の奥に綱御門が。ここが三戸城の最大の見どころかな!?
さらに降りて行くと、明らかに往時の石垣が一部残っているのが見えた。そして先ほどの物見台の所に出た。そこから、再度本丸へと車で登った道を・・・。車ではすぐなのに、歩いてみると結構ある。当たり前か!?それにしても暑かった( ̄ー ̄;
(2007/08/13登城して)

ギャラリー

三戸城(江戸初期)鳥瞰図(現地説明板より) ~クリックにて拡大画面に~ 
三戸城鳥瞰図

登城口の「石碑」と「説明板
本丸まで車で登って行けます。登城口には城址碑(石碑)と城址公園(城山公園)の案内図板が立っています。
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物見櫓跡
車で登って行くと、途中、右手に物見櫓跡が確認できます。 
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登城口
物見櫓跡の反対側に、登城道(遊歩道)と車道の分岐があるが、まずは本丸まで車で行った。 
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本丸への途中に一部残る石垣
車道脇に石垣が一部確認できました。
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本丸跡
本丸跡に到着。車は、ここに駐車出来ました。
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南部政直邸跡に建つ温故館(三層四階の歴史資料館)
本丸跡の南西には南部政直邸跡がありますが、ここに模擬天守風の歴史資料館「温故知館」が建てられています。三戸の歴史にあまり詳しくないので、まずは近世天守閣様式の温故館(三層四階の歴史資料館)に寄ってと思ったら、月曜日で休館でした(;>_<;)。
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南部利康邸跡
温故館の建つ南部政直邸跡の北西は南部利康邸跡ですが、そこには南部藩祖「南部光行」を祀る糠部神社(背後の建物)が建っています。
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南部藩祖光行を祭る糠部神社
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欅御門跡
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鏡里顕彰碑
近世天守閣様式の温故館の周りを散策すると、重臣の屋敷跡の多くの標柱があったが、どの重臣も知らない名前ばかり!・・・。
するとその中に、私が子供の頃に活躍した「太鼓腹の横綱鏡里」の石碑があり、城とは関係ないが、何かホッとした(苦笑)

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武者溜り(道両側が武者溜り、奥に見えるのは綱御門)
綱御門は三戸城第一の要衝であり、石垣で厳重に防衛されていた。綱御門の内側の守備兵の詰所が武者溜り。 
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綱御門(城内側から)
城内で最も厳重な警備がなされていた場所で、般若心経を読み、城の安泰を祈願した心経綱というしめ縄をかけ城門の安泰を祈願したことから、この名が付けられた。 
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綱御門(城外側から)
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綱御門下に一部残る石垣 
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コメント

みえのやっちゃん(2014/06/06)

三戸城近くの聖寿寺城の 発掘調査が始まっています。
南部利康霊廟等は 市教育員会管理で 運が良いと当日予約で 見学刺せてもらえます。

タクジロー(2014/06/07)

貴重な情報ありがとうございます。
なにぶん、遠いので、なかなか行けませんが、久し振りに、10月頃に東北地方へ行きたいと思っています。

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