二の丸北西隅の水堀
奥州における南朝方の一大拠点、且つ津軽に対する備えの城
別名
柏葉城
所在地
青森県上北郡七戸町七戸
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】 柏葉公園
【遺構等】 曲輪、土塁、水堀、空堀、碑、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2007/08/12
歴史等
七戸城の築城年代および築城主については、
①鎌倉時代初期 七戸太郎三郎朝清
②鎌倉時代末期 工藤右近将監
③南北朝時代初期 南部政長
等の諸説があり、必ずしも明確ではないが、資料に上に最初に登場してくる七戸の領主は、鎌倉幕府方の武将工藤右近将監である。
この工藤氏の領地七戸は、元弘3年(1333)鎌倉幕府の滅亡にともない宮方に没収され、建武2年(1335)、幕府打倒に功績のあった南部政長(後の根城南部5代)に下賜された。
爾来、この城は八戸根城とともに南朝方の一大拠点となり、特に津軽地方に対する備えとして重きをなした。
南北両朝合体後は、根城南部第8代政光がこの城に退隠し七戸氏を名乗った。
その後、長くその子孫が在城したが、天正19年(1591)九戸政実が宗家三戸南部信直に叛した時(九戸の乱:九戸城参照)、七戸家国は政実と結び、羽柴(豊臣)秀次を総大将とする奥州仕置軍に滅ぼされ、七戸南部家は断絶し、城もまた豊臣秀吉の諸城破却令により破却された。
しかし七戸の重要性から、信直は浅水城主南直勝に名跡を継がせ、慶長2年(1597)には、その長子直時を七戸2千石の城主とした。
直時の死後、正保4年(1647)盛岡藩27代利直の5男重信が後を継ぐが、寛文4年(1664)重信が29代盛岡藩主に抜擢されてから後の七戸は、 盛岡藩直轄となり、城内に代官所が置かれた。
『現地説明板2箇所より』
現況・登城記・感想等
七戸城址は当初想定していたよりも、規模も大きく、本丸・二の丸の周りを中心に遺構が良好に残っていた。
中でも、本丸や二の丸周囲の土塁や二の丸・北館間の水堀等がこの城の見どころであろう。また、二の丸と貝ノ口間の大堀切は大規模であると同時に実に綺麗で、二の丸上から見る眺めは最高のアングルだ。尤も、この堀切はほとんど自然の地形を利用したものだとは思うが。
また、他の郭も発掘調査が進んでいるようであり、北館については復元予定もあるようで、これからが楽しみだ。尤も、残念ながら再登城は、遠すぎてちょっと無理かな!?
(2007/08/12登城して)
ギャラリー
二の丸から見下ろす二の丸・貝ノ口間の大堀切
二の丸と貝ノ口間の大堀切は大規模であると同時に実に綺麗で、二の丸上から見る眺めは最高のアングルだ。尤も、この堀切はほとんど自然の地形を利用したものだとは思うが。