トロイ遺跡(Truva))

紀元前3000年からの9層に重なる遺跡、トロイ戦争の場に

所在地

トルコ共和国チャナッカレ県トロイ(Truva)

歴史等

トロイの地に集落が出来始めたのは紀元前3000年頃で、紀元前2500~2000年頃にはエーゲ海の交易の中心として繁栄した。
その後、栄えては滅びるという歴史を繰り返し、トロイは全部で9層にわたる都市遺跡を形成している。即ち、新しい王朝が進出して来たとき、 旧来の遺跡を壊して新しく造るのではなく、遺跡の上に堆積された土の上に、手っ取り早く新しい都市を造ったのである。
第6市の紀元前1800~1300年頃の一時期、特に繁栄を取り戻したが、トロイ戦争(紀元前1200年頃)の10年間に及ぶ攻防で、 町は滅亡の道をたどる。
その後、イオニア人が殖民し、マケドニア時代にはアレキサンダー大王が、ローマ支配時代にはコンスタンティヌス帝がこの地を訪れている。
「トロイの木馬」の伝説を信じたドイツのシュリーマンが1871~73年にヒサルルクの丘を発掘した。これをきっかけに遺跡が調査された。 現在もテュービンゲン大学による発掘調査が続いている。
『「添乗員エルキン氏の説明」、「地球の歩き方・イスタンブールとトルコの大地(ダイアモンド社刊)」他より』

【第1市~第9市】
第1市:紀元前3000~2500年(初期青銅器時代)
第2市:紀元前2500~2200年(最初の繁栄期で、陶器や金・銅製品など、高度の文明が)
第3・4・5市:紀元前2200~1900年(この期間は衰退期で区域もはっきりしない)
第6市:紀元前1800年~1300年(トロイの最盛期)
第7a市:紀元前1300年~1200年(末期はトロイ戦争の頃)
第7b市:紀元前1200~900年(イオニア人殖民時代)
第8市:紀元前900~350年(ギリシャ人が新しい町イリオンを築く)
第9市:紀元前350~紀元400年(ローマ支配時代)

現況・登城記・感想等

トロイ遺跡は第1市から第9市の都市が複雑に重なり合い、9層になっているとのことで、発掘するのが非常に難しいようである。従って、 見学していても各世代の遺跡が見られる反面、全体像は全く分からない。ましてや、勉強もしてこないで1時間強の見学では、悪く言えば 「辺りに大理石を中心とする立派な石が転がっているだけだ」といった感じでさえある。
それもそのはず。現在見ることのできる遺構群は、最初に発掘したシュリーマンが、本来実業家であり、考古学の専門家ではなかったこともあり、 重なる時代の地層の重要性を殆ど認識しない状態での発掘作業を行ったことから、その多くは判別が難しい状態で保存されているとのことである。
そうは言いながらも、この遺跡が1600~5000年前の大昔のものであるから驚きである。そのいずれもが、 当時これだけの技術があったのかと驚くようなものばかりである。
日本では16世紀末になってやっと安土城の石垣が出来たところである。石の種類が違い、細工がしやすいとは言え、あまりの違い!! 石の文化では100歩どころか1万歩は違う。何だか、あまり遺構が残っていない日本の城址めぐりをしているの自分が虚しいとさえ感じた。 (いやいや、これはこれ。日本には日本の文化が・・・。)
現在見学して廻るコースは大した広さではないが、まだまだ発掘調査中とのことである。周りを発掘したらまだまだ出てくるんだろうなあ!! 一体何年かかるのだろう!!
本当に、トルコ(尤も、トルコ人だけの歴史ではないが)の歴史の深さに感動しながらの遺跡めぐりであった。
(2008/03/09訪れて)

ギャラリー

見学コース(現地説明板より)       ~クリックにて拡大画面に~
この順路に沿って見学した。以下の写真も順路に従って撮ったものである。

9層になったトロイ遺跡の説明図(現地説明板より)   ~クリックにて拡大画面に~
トロイは栄えては滅びるという歴史を繰り返し、全部で9層にわたる都市遺跡を形成している。即ち、 新しい王朝が進出して来たとき、旧来の遺跡を壊して新しく造るのではなく、遺跡の上に堆積された土の上に、 手っ取り早く新しい都市を造ったのである。

木馬
トロイと言えば、トロイ戦争を思い出す。そして、トロイ戦争と言えば「トロイの木馬」である。 1975年に造られた伝説上の木馬の複製が、遺跡の入り口にシンボルとして設置されており、中に入ることも出来る。というわけで、 家内も一度は入ってみたいと入って行った。中は2層になっていて、2度階段を上らないといけない。どんどん人が入ってくるので、 なかなか上には行けないし、なかなか下りることも出来なかったとのことである。
 

遺跡に入るとすぐ穀物の保存などに使われたという底の尖った壺や水道の土管が置かれていた。

東の塔と城壁
門を入ると、東の塔、東の城壁の外側を通って、トロイ遺跡の第6市に沿って進む。 写真右奥の2つの城壁に挟まれた狭い通路付近が東の城壁で、トロイ最盛期(第6市)の遺構である。

今では、遺跡の向こうは一面の田園風景であるが、かつては海であった。ブラッドピッド主演の映画 「トロイ」でも、城は海に面したところにあった。トロイの城壁は堅固で、攻め込むことができないと言われるほどだったそうである。

この辺りには大理石がいっぱい。衛星画像で診断すると地下に遺跡が複雑に埋もれており、 発掘計画があるとのことである。しかし、トルコ人添乗員エルキンさんの話によると「私は、18年前からガイドをしているが、 その頃から発掘計画があったが、今も当時と変わらない。」とのことである。
 

この赤いブロックは、第1市のものだそうで、大きなテントで保護されている。
 

第1市の住居跡
第1市と言えば、な・な~んと!5000年も昔の住居跡ではないか!!

イチジクの木
枝が無数に張り巡らしたこのイチジクの木は、実にインパクトがあり、まるで化石のようで歴史を感じる。

第6市の住居跡
木馬で有名なトロイ戦争で破壊されたのは第6市の街だそうだ。現在も発掘が進行中であるが、 9つの層がごちゃごちゃに見えて全く分からない!時代別に札がつけられているが、それでもさっぱり分からない!!

第2市の大理石の坂道
南西門から外への出入りに使われた、大理石の敷石で舗装された坂道で、両脇もきちんと縁取られている。 トロイの木馬を運び入れた通路だとされている。

第9市の聖域
儀式に使われた場所である。右の低い壇は生贄を捧げる台。井戸は生贄の血を貯めるためのものと、 流すためのものの2つがある。

オデオン
トロイの遺跡の中で一番保存状態のよいローマ支配時代に造られた小劇場で、木製の屋根が付いていて、 小さいながら音響がよかったといわれている。大劇場もあったそうだが、崩壊してしまい、痕跡をとでめていないとのことである。

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コメント

小瀬憲昭(2008/03/30)

小時間の見学にも拘らず、しっかりと観察し、分析されたことに敬意を表します。私など只”トルコは大したものだ!”程度に見て過ぎただけでした。写真も鮮明で、この欄を見せていただく度に私の脳裏にトルコ訪問が蘇ることだと思います。
尚、底の尖った水瓶は地震対策のため地中に埋めるためであったそうです。

タクジロー(2008/03/30)

コメントありがとうございます。
トロイの遺跡の遺構は、第1市から9市まであり、本当にややこしかったですね。
底の尖った壷は、地震対策のためだとエルキンさんも仰ってましたね。

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