関東管領山内上杉氏歴代の山城
別名
平井詰城
所在地
群馬県藤岡市金井
形状
山城(標高326.2m)
現状・遺構
現状:山林(平井金山城址公園)
遺構等:曲輪、土塁、石垣、虎口、井戸、標柱、説明板
満足度(10点満点)
7点(櫓門、表城門跡発掘遺構を見ていたら8点以上かも)
訪城日
2008/01/08
歴史等
平井金山城は、平井城より南西約1kmの所にある平井城の詰城として利用されていたと考えられ、
「平井詰城」と記載された文献も見られる。又、敵軍の来攻を早期に発見して速やかに味方上杉軍を迎撃配備に就かせ、督戦指揮を執るなど、
平井城の天守閣の役目も果たした重要な山城であった。
永享10年(1438)関東管領上杉憲実のために家臣で中世室町時代の大築城家蒼海(総社)城主長尾忠房が平井城の本丸に、
二の丸とこの城を組み合わせて同時に築き、後に顕定が平井城を大拡張したと伝えられる。
『「平井城説明板」、「平井金山城本丸跡説明板&標柱」より』
現況・登城記・感想等
平井金山城へは登城するかどうか迷った。
その理由は真冬のPM2:30でもあり、日が暮れるのが怖いこともあるが、もう一つ理由がある。この城に登城した先達の多くの方の
『斜面が急な上に地盤が脆いのでくれぐれも滑落に注意! 雨の後なんかは行かない方が無難。 落石の痕跡もある。 また、
この近辺は有数の雷多発地帯なので、「アヤシイ」と思ったら行かない勇気も必要。』等々のアドバイスである。
幸い今日は天気も良い。自分一人なら、山容を見る限り1時間強もあれば戻って来れると思うが、家内も一緒である。家内に相談したら、
「登ってもいいよ」の一言。ということで出発~!
登山口は簡単に見付かった。平井城址から
「県道金井倉賀野停車場線」を南へ進むと「金井信号」へ出る、そこを右(西)へと曲がりしばらく進むと右側に「平井詰(金山)城址登山口」
の大きな看板見え、ここに駐車場がある。平井城址から車で3~4分ほどである。
駐車場から主郭まで約1kmとのことである。登山口を入って行くと、いきなり石垣に出会う。そんなに新しいものではないが、解説もなく、
往時のものかどうかは分からない。そして、いよいよ登り道へと入ると、「主郭まで約700m 現在地標高178m」の案内板があり、
大したことないなと一安心。登り始めると、綺麗に整備された竹薮になっており、雷の避雷針代わりなのか、
道の両側に空き缶が一杯針金で吊るされている。
その道を進んで行くと、杉林に変わり、「主郭まで約600m」の案内板の所へ出る。すると、そこに、またまた石垣が・・・。
この辺りの石垣は、古い野面積みの石垣で、本物(往時のもの)のように見えるが、どうなんだろう?しかも、
いかにも曲輪跡のような感じである。???
さらに進んで行くと、「本丸まで550m」と「登り口と8合目の物見台跡付近が急坂になっているので、休み休みお登り下さい」
との案内板がある。いよいよここからが本物の登り道らしい。
確かに、それなりに急坂で、道も狭く、しかも落ち葉がいっぱい落ちていて、滑りやすく多少危険でもあった。しかし、最近登った
「埴原城」
や「鹿伏兎城」
等と較べれば何てことはなかった。
そして、その坂を登り切った所に虎口があり、そこを入ると右側に物見台跡がある。物見台跡には石段と石垣が残っている。
ここからは、尾根伝いに本丸へと歩いて行く。本丸下で道が分かれ、右へ行くと「井戸曲輪や櫓門、表城門」へと行く道である。取り敢えず、
本丸へと上る。本丸は狭い。その狭い本丸に「上杉憲実の永享の乱・藤岡郷の戦い、籠城本陣跡」の案内板と「篝火台」が設置されている。また
「上杉氏方支城」の案内板が方角別にいっぱい設置されている。しかし、本丸からの眺望は、真冬とは言え、
木の枝が邪魔してあまりよく見えない。
南隅に「本丸跡南面の大石垣見学通路」の案内板があり、その狭い崖道(この道は正直危険だ。すぐ下が強烈な崖になっており、
その道たるや本当に細い上に、脆い)をちょっと降りると、デカイ岩が重なり合っている。これは人工的なものでなく自然のものだろう!?
本丸の奥、すぐ下は狭い腰曲輪のようになっているが、これは往時のものかどうかは分からない。その腰曲輪には小屋(東屋)が建っているが、
雷の多発地帯ということで、避難所らしい。
さて、次に井戸曲輪の方へと行く。少し行くと、虎口があり、その向こうに堀切と土橋が見える。この辺りは、なかなか見応えがある。
土橋を渡って、振り返って見る「手前に堀切・土橋、その向こうに虎口、その上に本丸」というアングルもなかなかのものである。
土橋を渡った所からは、尾根伝いに段曲輪になっている。そこを歩いて行くと、「井戸曲輪」と「櫓門、表城門跡発掘遺構」
への分岐点へと出たので、「櫓門、表城門跡発掘遺構」へとちょっとした藪こぎをしながら、どんどん降りて行った。しかし、
ちょっと時間が気になりだした。もうPM3:20である。発掘遺構は是非見たいが、帰り道が心配になってきた。また次回ということで、
涙を飲んで(ちょっと大袈裟?)引き返し、井戸曲輪へと行った。
井戸曲輪手前にも堀切があり、土橋が架かっている。そして、井戸曲輪跡にも雷除けの避難所小屋が建っている。井戸曲輪のすぐ下には、
岩盤をくり抜いた大きな井戸が残っていた。
駐車場に戻ったら丁度PM4:00であった。「櫓門、表城門跡発掘遺構」を見れなかったのは残念だったが、久し振りに、
群馬県の中世山城跡を見て満足した。
(2008/01/08登城して)
ギャラリー
登山口駐車場から金山城址を
山容を見たところ、比高差は200mもないが、真冬の2:30。迷うところだが・・・。
家内に相談したら、「登ってもいいよ」の一言。ということで出発~!
登城始めていきなり出会う石垣
登山口を入って行くと、いきなり石垣に出会う。そんなに新しいものではないが、解説もなく、
往時のものかどうかは分からない。
登城口
そして、いよいよ登り道へと入ると、「主郭まで約700m 現在地標高178m」の案内板があり、
大したことないなと一安心。ここにも石積みが見られる。
よく整備された竹薮の中を
登り始めると、綺麗に整備された竹薮になっており、雷の避雷針代わりなのか、
道の両側に空き缶が一杯針金で吊るされている。
またまた石垣が
道を進んで行くと、杉林に変わり、「主郭まで約600m」の案内板の所へ出る。すると、そこに、
またまた石垣が・・・。この辺りの石垣は、古い野面積みの石垣で、本物(往時のもの)のように見えるが、どうなんだろう?しかも、
いかにも曲輪跡のような感じである。???
㊧ここからが本格的登り道、 ㊨物見台下へ出る虎口
さらに進んで行くと、「本丸まで550m」と「登り口と8合目の物見台跡付近が急坂になっているので、
休み休みお登り下さい」との案内板がある。いよいよここからが本物の登り道らしい。
確かに、それなりに急坂で、道も狭く、しかも落ち葉がいっぱい落ちていて、滑りやすく多少危険でもあった。しかし、最近登った
「埴原城」
や「鹿伏兎城」
等と較べれば何てことはなかった。
そして、その坂を登り切った所に虎口が。
物見台跡
この城域東部に張り出した物見櫓は、敵軍の来攻を早期に発見して速やかに味方上杉軍を迎撃配備に就かせ、
督戦指揮を執るなど平井城の天守閣の役目も果たした。入口に石段があり、
外傍には石垣が残っている。(説明板より)
㊧尾根伝いの道、 ㊨小さな堀切
物見台跡からは、尾根伝いに本丸へと歩いて行く。途中、
案内板がないと気がつかないほどの小さな堀切跡があった。しかし、よく見ると、岩が掘削してあるのが分かる。
㊧最初の虎口、 ㊨次に出会う虎口
そして、さらに尾根道を行くと、虎口が2箇所あった。
清水刻字岩
金山城に勤務した城兵の飲料用水など、清水の湧き出す所を示す道しるべ岩だそうである。
本丸下の分岐点
本丸下で道が分かれ、右へ行くと「井戸曲輪や櫓門、表城門」へと行く道である。
本丸
まずは、取り敢えず本丸へと。
篝火台と案内板
本丸は狭い。その狭い本丸に「上杉憲実の永享の乱・藤岡郷の戦い、籠城本陣跡」の案内板と「篝火台」
が設置されている。また「上杉氏方支城」の案内板が方角別にいっぱい設置されている。しかし、本丸からの眺望は、真冬とは言え、
木の枝が邪魔してあまりよく見えない。
本丸南面大石垣(岩のすぐ下が見学路。すぐ下は絶壁。)
南隅に「本丸跡南面の大石垣見学通路」の案内板があり、その狭い崖道(この道は正直危険だ。
すぐ下が強烈な崖になっており、その道たるや本当に細い上に、脆い)をちょっと降りると、デカイ岩が重なり合っている。
これは人工的なものでなく自然のものだろう!?
【井戸曲輪方面へ】
堀切・土橋と虎口、そして本丸を仰ぎ見る
井戸曲輪の方へ少し行くと、虎口があり、その向こうに堀切と土橋が見える。この辺りは、
なかなか見応えがある。土橋を渡って、振り返って見る「手前に堀切・土橋、その向こうに虎口、その上に本丸」
というアングルもなかなかのものである。
㊧段曲輪、 ㊨櫓門跡・表城門跡への案内板
土橋を渡った所からは、尾根伝いに段曲輪になっている。
そこを歩いて行くと、「井戸曲輪」と「櫓門、表城門跡発掘遺構」への分岐点へと出たので、「櫓門、表城門跡発掘遺構」
へとちょっとした藪こぎをしながら、どんどん降りて行ったが、ちょっと時間が気になりだした。もうPM3:20である。
発掘遺構は是非見たいが、帰り道が心配になってきた。また次回ということで、涙を飲んで(ちょっと大袈裟?)引き返した。
堀切と土橋、その向こうは井戸曲輪
井戸曲輪手前にも堀切があり、土橋が架かっている。井戸曲輪跡にも雷除けの避難所小屋がある。
井戸曲輪下の井戸
井戸曲輪のすぐ下には、岩盤をくり抜いた大きな井戸が残っていた。尾根上から約3m、
東西に長い長方形をしている。この井戸は、湧水が少ない為、臨戦時には水が運ばれ、一時的な水場として使われたと考えられている。
(説明板より)