関東管領山内上杉氏の居城、北条氏康に攻められ越後の謙信のもとへ亡命
所在地
群馬県藤岡市西平井
形状
崖端城
現状・遺構
遺構等:曲輪、復元土塁、復元腰巻石垣、復元空堀、石碑、説明板
満足度(10点満点)
3点
訪城日
2008/01/08
歴史等
平井城は永享10年(1438)に勃発した「*永享の乱」に際し、
時の関東管領山内上杉憲実が、総社(蒼海)の長尾忠房に命じて築城されたという説と、応仁元年(1467)
に上杉顕定が築城したとされる説がある。いずれにしても、天文21年(1552)の後北条氏の平井城攻めで落城するまで、
関東管領山内上杉氏の居城としての役割を果たしていた。
山内上杉氏は、天文15年(1546)「*河越夜合戦」
で8万5千の大軍を率い後北条勢に決戦を挑み、あえなく敗退し衰亡の一途をたどることになる。さらに6年後の天文21年(1552)正月、
北条氏康に攻撃され、関東管領山内上杉憲政は越後の長尾景虎のもとに亡命し、景虎に上杉の名跡と関東管領職を譲った。
憲政の請いを入れた長尾景虎(上杉謙信)は、平井城を攻め、北条方から奪還したが、永禄3年(1560)
謙信は関東における拠点を厩橋城
(のちの前橋城)に移したため、平井城は廃城となった。
『「現地説明板」、「戦国合戦大全・上巻 下克上の奔流と群雄の戦い(学研刊)」参照』
【永享の乱】
鎌倉公方の初代は、足利尊氏の四男基氏で、以降、氏満、満兼、持氏と続く。持氏のとき、京都では5代将軍義量が亡くなった。
前の将軍義持には義量のほかに男子がなく、義持の弟4人は出家しており、将軍位が空位となった。
将軍位を狙った持氏は、義持に急接近をはかったが、相手にされず、将軍には結局義持の弟4人が「クジ引き」で決めることになり、青蓮院義円
(6代将軍義教)となった。
持氏は激怒し、将軍就任の祝賀会にも使者を送らず、年号が正長から永享に変っても新年号を用いないなど、幕府の指令は一切無視し、
将軍家との亀裂は決定的となった。そればかりか、持氏暴走を諫める関東管領上杉憲実とも対立するようになった。
永享10年(1438)憲実は身の危険を覚え、本国上野に逃れた。憲実は幕府に救援を求めると、将軍義教は大軍で鎌倉を攻めさせた。そして、
翌年2月持氏と子義久は自殺し、鎌倉府は4代90年余で壊滅した。
【河越夜合戦】
後北条氏2代目氏綱死すとの情報が関八州を馳せ巡ると、氏綱に敗戦し世を去った扇谷上杉朝興の遺子朝定と、
その同族である平井城の関東管領山内上杉憲政が反応した。憲政は出陣に先立ち古河公方にも働きかけ戦列に加わらせた。ここに、扇谷・
山内の両上杉勢6万5千、足利晴氏の公方勢2万、しめて8万5千の大軍団が河越城を完全に包囲した。
城を守るのは、 「*黄八幡」で有名な北条綱成以下3千であった。
北条氏康は5千の兵を率いて援軍に駆けつけたが、連合軍のあまりの人数に無血開城を条件に和平を申し入れたが
(和平のふりをしたとも云われる)、北条方をみくびった連合軍は応じなかった。
氏康は4月20日夜、城内と密かに通じ、時を同じくして連合軍に襲い掛かった。数を頼んであなどっていた上に、烏合の衆の連合軍は、
数千の戦死者を出して逃げ去り、扇谷上杉朝定は討死し、扇谷上杉家は断絶した。これで後北条氏の関東での覇権が確立した。
【黄八幡】
北条綱成の父は、今川氏に仕えた福島正成である。甲斐の武田信虎との戦いで父を亡くし、綱成は小田原に移り北条氏綱に仕えた。やがて、
氏綱の娘と結婚し、福島の姓を改め北条を名のった。綱成は武勇をもって知られ、黄色の地に八幡と書かれた旗印を用いたことから、
その軍勢とともに、日頃「黄八幡(きはちまん)」と呼ばれた。
現況・登城記・感想等
平井城址はよく復元整備がされ、説明板等も充実している。
しかし、復元された土塁前に突き出ているビニールハウス、それに何よりも豚小屋と牛小屋から放たれる悪臭は何とかならないものだろうか?
由緒ある平井城であるというのに、城址を偲ぶ環境にはなく、ただただ臭いの一言に尽きる。
地元の方の賛同がとれなくて、止むを得ず一部だけ中途半端に復元したのだろうか?関東管領上杉氏への興味の無さなのか、人気の無さなのか?
平井城址の感想は「臭かった!!」
(2008/01/08登城して)
ギャラリー
復元土塁(復元された本丸跡西側の土塁を城内から)
復元土塁上から詰の城「平井金山城」を望む
平井金山城は南西約1kmにある、標高326.2mの要害山城である。
復元土塁前に突き出たビニールハウス(何とかならなかったのかねえ!?)
本丸東部分
ここへは、回り道をして行かなければならない。手前に土橋、その奥に、本丸空堀等々が。
この写真を撮った左側に牛小屋が、そして右奥の建物は豚小屋があり本当に臭い。おまけに道路には牛の糞が落ちている。
豚小屋の奥に本丸がある。
復元空堀(復元された本丸跡東側の空堀と木橋)
復元竪堀(復元された本丸東側竪堀)