武蔵 花崎城(加須市)

曲輪北側の水堀の東部分

細萱氏の城、謙信による小田原攻めの時に落城

所在地

加須市花崎2丁目、花崎城山公園(花崎遺跡)・城址公園
【行き方】
東武伊勢崎線「花崎駅」の西方、約600メートル。
花崎駅南口から線路沿いに西へ約600m進むとフェンスに囲まれた花崎城山公園に着く。駐車場はないので、道路の隅に駐車した。尚、 線路の反対(北)側にも城址公園があり、馬出し跡であるが、遺構等は全く残っていない。

形状

平城

現状・遺構等

現状:花崎城山公園、城址公園、宅地等
遺構等:曲輪、土塁、空堀、水堀、説明板

満足度(10点満点)

3点

訪城日

2009/09/06

歴史等

花崎城の築城時期や築城者は定かではないが、戦国時代には、栗原城の細萱氏の支城であった。
細萱氏は後北条氏に従っていたため、永禄4年(1561)、長尾景虎(上杉謙信)の小田原攻めの時に、 木戸忠朝に栗原城と花崎城を攻めさせた。
この時、細萱光仲は小田原城に参陣していたため、 花崎城は光仲の子でわずか11歳の泰秀が守っていたが栗原城とともに落城した。
これより後、花崎城は歴史に登場しない。
『フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)他参照』

現況・登城記・感想等

花崎城址は住宅地にあるが、城址一部が花崎城山公園としてよく保存・整備されて、堀や土塁が良好に残り、 城址の雰囲気を醸し出している。
曲輪(本丸?)を取り囲むように堀がめぐり、北側から西側にかけては水堀となっている。南側は空堀であるが、 こちらも往時は水堀であったのではないだろうか?
また、西端には小さな曲輪があり、曲輪(本丸?)との間が水堀で区切られ、この小曲輪周囲も堀がめぐっている。
花崎遺跡の説明板によると、昭和55年から56年にかけて発掘調査が行なわれ、畝堀・馬出し・橋脚及び障子堀などが出土したようだが、 埋め戻されてしまったんだろうなあ!?
永禄4年(1561)に上杉謙信軍により落城となって以降、歴史に登場しないが、これらの遺構を考えると、 その後も後北条氏によって改造され、使用されたのではないだろうか!?
(2009/09/06登城して)

ギャラリー

公園東側入口
公園はフェンスで囲まれ、入口はこの東側正門の他に、南側にもある。 この東側入口には写真右側に花崎遺跡の説明板があり、花崎城についての簡単な説明も書かれている。また、南側入口には城址碑(標柱) がたっている。

曲輪(本丸?)へ
入口から入って行くと、空堀に橋が架かり、橋の奥は曲輪(本丸?)跡。曲輪の南北両側に堀が見え、 城址の雰囲気を醸し出している。

南側の空堀
南側は空堀になっているが、往時は水堀だったのではないだろうか?

北側の水堀
北側の堀は水堀になっている。堀の真ん中辺りに橋(写真奥)が架けられている。

北側水堀の西部分
堀の中央に架かる橋から撮ったもの。TOP写真は、この橋の反対(東)側の写真である。

西端の小曲輪と本丸?との間の水堀
西端には小さな曲輪があり、曲輪(本丸?)との間が水堀で区切られている。堀の左側が小曲輪、右側が本丸。

小曲輪西側の水堀
小曲輪周囲も水堀がめぐっている。

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント