主郭跡
前期里見氏当主の居城、天文の内乱の舞台
所在地
千葉県館山市稲
形状
平山城
現状・遺構
現状:山林
遺構等:曲輪、堀切、土塁、虎口、横穴墓、井戸、遺構案内板、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2006/07/22
歴史等
里見氏はもともと上野国(現群馬県榛名町里見)の出身である。鎌倉時代のはじめ、関東管領上杉氏から所領を奪うために、
鎌倉公方から送り込まれたのが房総里見初代の里見義実である。義実は上杉勢力を駆逐し、白浜城
(南房総市)を取り立て、安房進出の第一歩とした。
やがて義実は安房を支配するのに相応しい地・稲村城へ進出した。義実の子・義通は稲村城を拠点に安房の国主になった。しかし、その子・
義豊の時の室町時代の天文2年~3年(1533~1534)「※天文の内乱」
が起こり、義豊が討ち取られ、前期里見氏(里見本家筋)は滅び、城も廃城となった。
【※天文の内乱】
天文2年(1533)、里見義豊が叔父・
里見実尭と里見家を腹心として支えていた正木通綱を稲村城内で殺害した。この事態に実尭の子・義尭は反撃に転じ、翌年、
義豊を犬掛の合戦で討ち取って、分家筋だった義尭が家督を継いだ。勝利した義尭は本城を滝田城・宮本城方面へと移し、
稲村城はこの内乱以降使用されなかった。そのため、稲村城跡は、戦国前期の城の姿がいまも残された貴重な遺跡と評価されている。
『房総里見氏(NPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム刊)より』
現況・登城記・感想等
内房線九重駅の南西300mほどのところにあるが、探すのに結構苦労した。
登り始めるといきなり「東の水往来」というのに出くわした。水往来はそれほど深いものではないが、堀切のようになっており、
方形に切り取った石で組まれた側面の石積みは精巧で、なかなかのものである。そして、それは東の水往来から西の水往来へと続いており、
山を分断している。
また、東の水往来の途中に側面の土塁の上に登れる所があり、そこから見える段々畑のように山の中腹まで連なる腰曲輪跡も見応えがある。
腰曲輪跡は、この城跡の各所に見られる。
水往来の頂上部から尾根道を登って行くと、途中、腰曲輪・堀切・横穴墓があり、頂上部の主郭に出る。主郭はそれほど広くはないが、
虎口と土塁が確認でき、館山平野や遠くの山並みが見える。その山並みの中に館山城跡や滝田城跡も見えるらしいが、
それらがどれかは分からなかった。
デジカメを忘れてしまい、使い捨てカメラで代用したが、堀切・横穴墓・土橋・土塁等々うす暗い所はほとんど真っ黒でガックリ!
(2006/07/22登城して)
ギャラリー
東の水往来(左)と西の水往来(右)
それほど深いものではないが、堀切のようになっており、方形に切り取った石で組まれた側面の石積みは精巧で、
なかなかのものである。そして、それは東の水往来から西の水往来へと続いており、山を分断している。
水往来側面の石組み
方形に切り取った石で組まれた石積みは精巧で、なかなかのものである。
腰曲輪
段々畑のように山の中腹まで連なり見応えがある。腰曲輪跡は、この城跡の各所に見られる。
正木様
稲村城の周辺には、昔から里見氏の家臣の子孫が住んでいたといわれる。その代表的な家が、
里見一門の正木氏の子孫で、今も周辺に正木家がある。その5軒を祀っているのがこの正木様で、旧暦の2月18日に供養をするそうである。
中郭部(水往来を登りきったあたりに中郭部と称される平場に出る)
主郭への虎口(写真では暗く分かりにくいが、左奥の土塁とともにわりあいはっきりと残っている)
主郭部
稲村城の全景
『その他、堀切・土塁・帯郭・土橋・横穴墓等は真っ黒け! 残念!!』