三河 渡城(岡崎市)

渡城址全景

関ヶ原合戦の前哨戦で、伏見城に籠城し西軍と戦い討死した鳥居元忠の城

所在地

愛知県岡崎市渡町字東浦45
【アクセス】
「渡町大棚信号」を南東方向へ300mほど進み、突き当たりを右折し600mほど進んだところの路地を(八幡宮の100mほど手前)左折し矢作川の堤防方向へ進む。150mほど行った左手の田圃の向こうに「鳥居氏発祥の地」の石碑が見え。そこからさらに50mほど行った堤防手前左手のお宅が渡城址。

形状

平城

現状・遺構等

【現状】 個人宅
【遺構等】 土塁、水堀?、石碑、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2011/08/14

歴史等

鳥居氏の祖・熊野新宮別富19代行範は平氏の姓を拝領し、鳥居法眼と呼ばれた。
承久の乱後、行忠の代に三河国矢作庄に移り、名を渡里傳内忠氏と改めた。8代忠景は新田義貞に仕えたが、新田氏衰運の後、渡利村に戻り、鳥居藤左衛門と名を改めた。
鳥居氏は松平氏の古くからの譜代とされるが、その後、忠氏から17代目忠吉の代まではその事積はよくわからない。
忠吉は、松平清康・広忠・家康に仕え、三河が今川氏の属領化していたころ岡崎の惣奉行として活躍した。岡崎が今川氏の手にあった家康の苦難時代、今川方の城代の目をかすめて、主君が帰城する日のために兵器や兵糧米をたくわえていた逸話は有名である。また、鳥居氏は一向宗徒で 永禄6年の三河一向一揆では、一族には一揆に加担したものも多く出たが、忠吉は家康に味方した。
忠吉の子が鳥居元忠である。元忠は父忠吉の三子として天文8年(1539)渡に生まれ、幼少より家康に近侍し、天正18年(1590)の家康の関東移封の際には下総国矢作4万石を与えられている。元忠は、関ヶ原の戦いの直前、伏見城を守って討ち死にした忠臣として名を残している。慶長5年(1600)7月25日~30日、石田三成の開城要求を拒絶した元忠らは、4万の西軍に攻められ討死をとげた。
『「現地説明板(長嶋氏家譜)、(岡崎観光文化100選)」他参照』

現況・登城記・感想等

城跡には子孫の方が住まわれているようだが、屋敷の北西から北東側にかけて、L字型に高さ2mほどの土塁が見事に残され、屋敷を取り囲んでいる。土塁の外側には水路があるが、往時は堀があったのだろう。
屋敷の入口脇には、「城址碑(渡城址・渡里伝内忠氏築城之地)」と「長嶋氏(長嶋氏家譜)」の立派な石碑がたてられている。
また、城址の西50mほどのところには「鳥居氏発祥地」の石碑や墓があり、そのそばに「岡崎観光文化100選(鳥居氏一族の発祥地)」の説明板が設置されている。
(2011/08/14訪れて)

ギャラリー

屋敷の北西側の土塁
屋敷の北西から北東側にかけて、L字型に高さ2mほどの土塁が見事に残され、屋敷を取り囲んでいる。
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周囲を囲む水堀跡?
土塁の外側には水路があるが、往時は堀があったのだろう。写真は矢作川堤防上から撮ったものであるが、勿論、当時はこんなところに、城攻めにぴったりの堤防は築かれていなかっただろう(苦笑)。
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長嶋氏家譜の碑と城址碑
屋敷の入口脇には、「城址碑(渡城址・渡里伝内忠氏築城之地)」と「長嶋氏(長嶋氏家譜)」の立派な石碑がたてられている。長嶋氏家譜が刻まれた説明文は例によって読み辛かったが懸命に解読?( ̄ー ̄;。
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鳥居氏発祥地の碑と墓
城址の西50mほどのところには「鳥居氏発祥地」の石碑や墓があり、そのそばに「岡崎観光文化100選(鳥居氏一族の発祥地)」の説明板が設置されている。
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