三河 竹谷城(蒲郡市)

主郭と主郭入口に立つ城址碑

竹谷松平氏始祖守家が土地を買い求めて築いた城

所在地

県道383号「土生」から100m程東進した次の路地(中央分離帯があるため反対側から右折はできない。また、道は狭く駐車できる場所はない)を左折すると左前方に低い竹藪が見える。それが竹谷城址である。100m程北上すると左手に竹谷城へ入る「民家の庭の前の道」があるのでをそこを通って行くと、薮の手前に案内板がある。駐車は、左折してきた場所から東100m強にあるイオンの駐車場(県道383号沿い)を借用した。

形状

丘城(標高15m)

現状・遺構等

【現状】 竹藪、ミカン畑
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、土橋?、虎口、石碑、城址への案内板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2011/08/14

歴史等

竹谷(たけのや)松平氏は、信光の長男守家を始祖とし、天文17年(1548)、竹谷の住人牧山喜三郎から700貫の土地を買って竹谷に築城したという。
永禄3年(1560)5月の桶狭間合戦にて今川義元が討死したのちは、上ノ郷城の上ノ郷鵜殿氏と大塚中島城の岩瀬氏を除き、他の三河の諸将はことごとく松平(徳川)氏に服した。竹谷松平氏清善も同様であった。
清善はこののち、元亀3年(1572)から遠江宇津山城を守り、孫の家清は徳川家康の関東移封に伴い、武蔵国八幡山1万石に移封となり、その後竹谷城は廃城となった。
その後、関ヶ原合戦を経て慶長6年(1601)には三河吉田城3万石の城主となったが、その子忠清が同17年(1612)に没し、無嗣除封となった。
しかし同年、弟清昌に西ノ郡(蒲郡市上本町)5千石が与えられ、交代寄合として蒲形城の一角に陣屋を構え、明治に至った。
『日本城郭大系9より』

現況・登城記・感想等

城跡の多くは竹藪となり主郭一部がミカン畑になっている。
主郭南側には空堀があるというが、主郭の南側は竹が密集する竹林の上、訪れたのが真夏のためさらに強烈な藪となり、とても入って行けるような状態ではなかった(/。ヽ)。
また、主郭北西部には土塁が残っているとのことだが、これまた薮でよく見えなかった(/。ヽ)。
(2011/08/14訪れて)

ギャラリー

竹谷城跡全景
県道383号「土生」から100m程東進した次の路地を左折すると左前方に低い竹藪が見える。それが竹谷城跡である。
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竹谷城跡への入口
100m程北上すると左手に竹谷城へ入る「民家の庭の前の道」があるのでをそこを通って行くのだが、庭の中を通るような感じなので躊躇してしまう。写真奥の竹藪が城跡。
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土橋?
竹藪へ向かうと、土橋になった細い道があり、その向こうに「竹谷城跡」の看板が立っている。
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虎口?
これを虎口と呼んでいいのか分からないが、竹藪の中を通って行く。両側は竹が密集しているだけでなく、倒れた竹もいっぱいで入って行く隙間は全くない。
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主郭
竹藪の中を通って行くとすぐ主郭へ出る。石碑(TOP写真)が立ち、主郭右(北)側はミカン畑になっている。この主郭北西部(写真正面ミカン畑の奥)にも虎口があり、土塁が残っているとのことだが薮がすごくて全く分からなかった(;´▽`A``。
IMG_5350

主郭南側は強烈な藪で・・・( ̄ー ̄;
主郭南側に空堀が残っているというので入って行きたかったが、先程の登城道両側の竹藪は倒れた竹も含めて竹が密集していて入れないし、主郭の南側は写真のように強烈な藪で、とても入って行く勇気はなかった(/。ヽ)。
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