東古城一の曲輪跡に建つ古城稲荷神社社殿と城址碑、説明板
形原松平氏発祥の城
別名
稲生城(いのうじょう)
所在地
愛知県蒲郡市形原町東古城
【アクセス】
「形原港町」信号から50m程西進すると交差点があり、そこに案内板があるので、分かると思います。
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】 古城稲荷社、宅地等
【遺構等】 曲輪、石碑、説明板(一の曲輪と二の曲輪跡の2ヶ所に)、城址への案内板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2011/08/14
歴史等
形原城(かたのはらじょう)は、平安時代末期に清和源氏義光の孫の方原師光によって築かれたと伝えられている。
その後、長享年間(1487~89)に松平氏3代信光の4男与副(ともすけ)がここに移り「形原松平」と称した。北古城、南古城はこの時代に築かれたものと思われる。
形原松平は、初め今川氏に属していたが、永禄3年(1560)5月に桶狭間合戦にて今川義元が討死したのちは、他の三河諸将と同様、松平(徳川)氏に服し、各地を転戦した。
6代家信の時、天正18年(1590)から上総国五井で5千石を領し、関ヶ原合戦後の慶長6年(1601)に形原に戻ったが、元和5年(1619)に摂津国高槻藩主として転封されたのを最後に形原城は廃城となった。
さらに子孫は、慶安2年(1649)、丹後篠山5万石に移封され、さらに丹波亀山5万石に移封されて明治に至った。
『「日本城郭大系」、「現地説明板」等より』
現況・登城記・感想等
形原城は、今ではその大部分が宅地や畑となり、東古城の主郭部(一の曲輪と二の曲輪)が残っているだけである。古城稲荷の社殿が建っているところが一の曲輪で、一段下がったところが二の曲輪のようだ。
城址周辺には他にも、塁段状の削平地が見られるが、城の遺構か後世のものか分からない。
往時は三河湾の海上に突出した丘陵を利用して築かれていた城で、規模も比較的大きかったようで、東古城の他に北古城・南古城の地名が残っている。
(2011/08/14登城して)
ギャラリー
南側から城址(古城稲荷社)を見上げる
形原城は、今ではその大部分が宅地や畑となり、東古城の主郭部(一の曲輪と二の曲輪)が残っているだけで、古城稲荷社の南側に廻り下から見上げると、周囲は結構急崖にはなってはいるが、ほんの小さな土塁といった感じだ。
二の曲輪跡
TOP写真の一の曲輪(石段の上)の下に、二の曲輪跡があり、そこにも説明板が立っている。
お妙塚
二の曲輪跡には「五輪塔」と「お妙塚」というのも祀られている。天正9年(1581)に北条方の間者明鳥左馬之助に13歳の若き主君又七郎(後の松平家信)が暗殺されそうになった時に、乳母お妙が身をもって命を救ったといわれる。お妙の亡骸は当城の守護神として城内ゆかりの地に手厚く葬られ墓標がわりに桜の若木が植えられたといい、いつの頃からともなく、この桜を「お妙桜」と呼んだという。昭和15年に塚をたてる時に、五輪塔が発掘され、毎年2月第1日曜日には供養が営まれているという。