備前 三石城(備前市)

大手門石垣

赤松氏家臣浦上氏代々の城、その後下剋上にて戦国大名となる

所在地

岡山県備前市三石
【アクセス】
三石駅から南西へ400m程行った右手に案内板があり、ここからも登れるが、車の場合、駅から北東へ300m程進んで左折し「深谷の滝」の方へ道なりに進む。右手に「深谷の滝」を通り越し、更に500m程道なりに進むと左手に大きな案内板と石碑が有る。そこを左折して、道なりに約1km先の道路終点が登城口で説明板があり、ここに駐車できる。尚、道はかなり狭い。
登城口から主郭までは約30分

形状

山城(標高291m、比高210m)

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、大手門跡、堀切、竪堀、井戸、池、石碑、説明板、遺構案内板、道標

満足度

★★★★

訪城日

2011/09/23

歴史等

三石城(みついしじょう)は、鎌倉時代末期の元弘3年(正慶2年・1333)、地頭職の伊東二郎が築いたことに始まる。
伊東二郎は、南朝方に与し、三石城に籠って幕府方(六波羅探題)の救援に上洛する軍勢の山陽道通過を妨げ討幕戦に加担した。
その後、建武の新政府に武家が離反して武装蜂起が各地で頻発した。建武2年(1335)には備中福山城で反政府の武装蜂起が発生し、備前の政府側国人を中心とする追討軍が向けられたが、敗れて三石城に逃げ帰り籠城している。
この頃には、新政府軍が三石城を保持していたが、建武3年(延元元年・1336)の足利尊氏の九州への敗走に際し、三石城には尊氏の将・石橋和義など足利勢が籠城し、新田義貞軍に激しく抵抗しており、同年初めには三石城は足利方の手に渡っていた。新田義貞は、足利方の播磨白旗城や三石城を攻撃するが、石橋氏以下足利方の頑強な防戦の前に攻めあぐね、三石に釘付けにされた。
その後、室町幕府の成立に伴って、赤松氏が備前国守護職になると、赤松氏の重臣・浦上宗隆が備前守護代として入り、以後浦上氏代々の拠点となった。
浦上氏は、村宗の代に主家の赤松義村と不和になり、村宗は大永元年(1521)に義村を弑逆し備前東部と播磨国西部を領有する戦国大名となった。いわゆる下剋上である。
村宗の死後は、子の政宗が跡目を継いだが、居城を播磨の室津城に移し、三石城には城番を置いた。
その後享禄4年(1531)、政宗と弟の宗景・国秀が不和になり、次男宗景が天神山城へ移り、三石城を持ち城とし、三男国秀は富田松山城に分立して居城を構えた。
弟の離反を怒った政宗は、翌5年(1532)に宗景討伐の軍を起こし、まず三石城を攻略し、ついで富田松山城を攻撃して国秀を降伏させた。ついで富田松山城を本陣にして宗景を攻めたが、決着がつかず、双方が自然と手を引いて終戦となった。政宗は、富田松山城と三石城に城番を置いて室津城へ帰陣した。
その後、宗景は天神山城を居城にして備前国と美作国南部を領国とする戦国大名に成長し、兄政宗の滅亡後には播磨国南西部をも領有すると、三石城の存在意義が薄れ、自然と廃城になった。
『「日本城郭大系13」、「現地説明板」より』

現況・感想等

三石城は、変型連郭式山城で、総延長350mにわたって城郭施設が構築されている。城内には、上部建築物を除く当時の遺構がほぼ完存している。
縄張は、頂上部の本丸から南西へと階段状に二の丸・三の丸がのび、本丸の北側には堀切をはさんで出丸(鶯丸)がある。本丸の南西側面には大手曲輪が設けられている。二の丸・三の丸の北側にそって馬場があり、一段下の大手曲輪との間に池が設けられている。
当城の一番の見どころは大手門と大手曲輪の石垣であろう。野面積みの石垣が見事に残っている。また、本丸と鶯丸間を断ち切る大堀切も見事だ。
(2011/09/23登城して)

ギャラリー

三石城縄張略図(現地説明板より)

【登城記】
台風による倒木が・・・( ̄ー ̄;
2日前の台風で木の枝が道に散らばっているが、道が
狭いため除けて通ることも出来ず、パンクを心配しながら登城口へと進むと大木が2本倒れ道を塞いでいる。今回の岡山遠征で、最初の攻城をいきなり断念かろ思いきや、倒木の50mほど向こうに登城口が見えた。ホッ(*^_^*)。何とか枝の間をくぐって行けそうだということで、そこに駐車して、さあ登城!
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登城口
登城口には説明板と石碑が立てられている。石碑をよく見ると「城址名」でなく、「三石城史の研究 文学士●●●●」と刻まれている(;´▽`A``。こんなのありか~?
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登城道
登城道はハイキングコースとしてよく整備され歩きやすい。最初のうちは緩い下りから始まるが、しばらく進むと、急な上りと下りのアップダウンの道になる。
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最初に出会う堀切
登城口から、第一展望所で播州の山並み、第二展望所で瀬戸内海の眺望を見ながら歩いてくること約25分ほどで堀切へ出て、城域に入ったことが分かる。この堀切は、かなり埋まってしまい浅いが、土塁と空堀が右奥へと続いているのが分かる。

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鶯丸(出丸)
堀切を渡ったところが鶯丸である。南側下には帯曲輪も確認できる。
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大堀切①
鶯丸を縦断するとすぐ本丸との間を断ち切る大堀切が現れる。この堀切は、大規模なもので深さも幅も大変なもので、大手門や大手曲輪の石垣とともに、当城の最大の見どころの一つであろう。
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大堀切②
堀切は岩盤を砕いて断ち切ったゴツゴツしたもので、東側斜面(写真奥)では竪堀となり山裾へ落ちて行っている。ここから、南(写真右)側へ階段を登って本丸へ直接行けるが、私は案内板に従って南西方向(写真手前)へと堀底道を進んだ。
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大堀切③
西側(写真手前へ)に延びた堀底は主郭・二の郭の西側下をカバーする巨大な横堀(堀底道)となる。堀底道の両側には、至る所に石垣の残石(軍用石)が見られる。
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大手曲輪北側の石垣
堀底道の途中、案内板に従って大手門方向へ進むと、こんな山の中に場違い?のような石垣が見えてくる。この城最大の見どころの大手曲輪石垣だ。
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大手曲輪
大手曲輪は、石垣構築の台形をした枡形を谷(西)側に張り出して構築した曲輪で、幅約20m、奥行約10mの規模で、
周囲を平均約3mの野面積みの石垣が構築されている。
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大手曲輪西側の石垣
大手曲輪周囲は総石垣で固められていたようで、曲輪西側の石垣も良好に残っている。
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大手曲輪西側の石垣と竪堀
大手曲輪の西側は急斜面になり、竪堀が設けられている。正面上が大手曲輪西側の石垣。
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大手門石垣
大手門は大手曲輪の南西側にあり、虎口の両側を石垣で固め、廊下門か埋門が構えてあったと想定される。これまた、野面積みの石垣が見事に残っている。
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大手門上の土塁と池?
縄張図によると、大手門上の土塁横(写真左側)には池があるはずだが、水がなかったような!?
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二の丸下の井戸
大手門から大手曲輪経由で三の丸へ向かうと左手に井戸があり、水がたまっていた。ここは二の丸の西側下にあたる。
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馬場
さらに進むと馬場跡へ出る。
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三の丸と井戸
三の丸は東西10~
20m×南北100mほどあり、西側縁辺には上幅2m、高さ1mほどの土塁の痕跡が残り、内部は北から南側に数段に区画され、井戸が三の丸中央部(写真右側)と南端部にある。ところが、南端部へ行くのを忘れてしまった(/。ヽ)
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三の丸から二の丸へ
二の丸が、三の丸より約5mほど高くなっている。
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二の丸
二の丸は、本丸(写真奥)より約5mほど低く、本丸側約20m、先端部約12m、奥行約25mほどの台形状の曲輪である。二の丸の西側縁辺の上幅約1m、高さ約1mほどの土塁はかなり明確に残っている。二の丸は、本丸側に高さ約1m、幅約10m、奥行5~6mほどの土壇が設けられている。
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本丸
本丸は、東西約40m×南北約70mほどの不整形な楕円形で、中央奥寄りに高さ1~2mほどの2段構えの基壇が設けられており、居館があったとされる。
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軍用石
本丸の北側には軍用石と表示された石塁がゴロゴロしているが、これは居館の基礎に使っていた石のようだ。
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本丸の土塁
本丸の西側縁辺の土塁は明確に残り、高さ約1m、上部幅1.2m、基底部幅3mほどある。
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