尾張 鳴海城(名古屋市緑区)

天神社境内にたつ城址碑と説明板

今川氏の尾張進出の拠点の城、桶狭間合戦敗北後も城主岡部氏は奮戦

別名

根古屋城

所在地

名古屋市緑区鳴海町城
【アドレス】
「花井信号」から南へ約200mほど行くと左(東)側に天神社があり、その境内に城址碑と説明板がある(UFJ銀行のすぐ北側)。主郭部は、その西100m弱のところに城跡公園となっている。

形状

平山城(標高20m)

現状・遺構等

【現状】 鳴海城跡公園、天神社、市街地
【遺構等】 石碑、説明板

満足度

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訪城日

2011/08/17

歴史等

鳴海城(なるみじょう)は、応永年中(1394~)、足利氏の武将安原宗範によつて築城されたといわれる。
天文年間(1532~1555)には、織田信秀が修築して山口教継を守将として配置したが、信秀の死後、信長に不信を抱いた教継が城ごと今川義元に寝返った。
当地域は、尾張と三河の国境に近く、両国勢力の接触するところで城砦の数も多く、当城は、西に星崎城、南に大高城と相対する東海道の要地にあり、今川氏の尾張進出、さらには中央制覇のための拠点の一つとなった。そして、永禄年間(1558~70)、山口教継が信長に暗殺された後に、今川義元は、部下の勇将岡部元信を当城に配して織田氏に備えた。
これに対抗すべく、信長は永禄2年(1559)頃に鳴海城の周囲に丹下砦、善照寺砦、中島砦を築いた。
永禄3年(1560)、桶狭間の戦いが起こり、今川軍はまず大高城に付けられた織田方拠点の鷲津砦丸根砦の排除を敢行し、残りの鳴海城に付けられた丹下砦、善照寺砦、中島砦の3砦の排除を残すのみとなり作戦は順調かにみえたが、作戦総司令部である義元本陣が織田本隊の強襲により総大将義元が討ち取られ総崩れとなってしまった。
しかし、元信は主君義元が討たれたのちも織田方に屈せず立て籠もって奮戦し、今川義元の首級と引き替えにようやく開城した。
その後、鳴海城は、佐久間信盛、正勝らが城主となったが、天正18年(1590)に廃城となった。
『「日本城郭大系9」、「現地説明板」他参照』

現況・登城記・感想等

鳴海城は、尾張国に打ち込まれた今川方のクサビの城であった。
現在主郭部は、ちょっとした高台にあり、城跡公園となっているが、遺構等は全く残っていない。
道路を隔てた東側100m弱のところにある東曲輪跡には天神社が建てられ、境内に城址碑と説明板が立っている。
(2011/08/17訪れて)

ギャラリー

主郭部の城跡公園
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天神社
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