備前 周匝茶臼山城(赤磐市、旧吉井町)

本丸跡に建てられた模擬天守閣

浦上宗景隷下の笹部氏の居城、宇喜多直家により落城

所在地

岡山県赤磐市(旧吉井町)周匝 
【アクセス】
B&G海洋センターの広い駐車場の中を道なりに進み700mほど進むと城山公園第2駐車場へ出る。ここに池田家墓所があり、そこから墓所を左手に見ながら更に600mほど進むと模擬天守下の第一駐車場に着く。赤磐市に入ると至る所に「城山公園」の案内板があるので分かると思います。ちなみに、大仙山城は墓所の横から登って行く。
B&G海洋センター:赤磐市草生1、電話086-954-2323

形状

山城(標高172m、比高110m)

現状・遺構等

【現状】 城山公園
【遺構等】 模擬(天守、石垣、冠木門、土塀)、曲輪、土塁、堀切、竪堀、井戸、説明板
模擬天守への入城は、PM5:00まで。

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2011/09/23

歴史等

周匝(すさい)は美作国と備前国を結ぶ交通の要路であり、国境の要所であるため、歴史上、重要な場所であった。
茶臼山城の築城時期については不明であるが、概ね中世、享禄・天文の頃(1528~55)に築かれたものと推察され、天文初年(1532)頃には浦上宗景に従う備前国北東部の有力名主(或いは国人か?)の笹部勘二郎が居城にしていたようだ。宗景が天神山城を居城として戦国大名に成長すると、笹部氏は宗景の隷下に入り、吉野川中流に位置する天神山城の上流の要衝を押さえた。
天正5年(1577)浦上宗景が下剋上によって宇喜多直家に滅ぼされた後も、備前国北東部から美作国南東部の宗景に従っていた名主層は、宇喜多氏に叛旗を翻し、笹部勘二郎もこの一党に与していた。このため、宇喜多直家は、美作国平定をはかり、同7年(1579)に大軍をもって攻め、まず手はじめに笹部勘二郎の籠る茶臼山城を攻撃し、勘二郎と息子は討死し、城は落城し、以後、自然と廃城になった。
その後、江戸期になり、幕藩体制も確立し、寛永9年(1632)鳥取より転封し岡山城に入城した池田光政が、領内要地を一族及び譜代の家老の知行地にして陣屋を構えさせた。要衝の周匝には池田伊賀守長明が2万2千石を与えられ陣屋を構えた。
『「日本城郭大系13(新人物往来社刊)」、「本丸跡説明板」、「池田氏墓所説明板」、「第2駐車場説明板」参照』

現況・登城記・感想等

茶臼山城は、吉井川と吉野川の合流点を眼下に見下ろす茶臼山山頂部に築かれている。
現在、2層の模擬天守(展望台)が建てられ、本丸部分が城山公園として整備されているが、往時の城郭遺構は比較的良好に残されているようだ。
模擬天守が建てられている本丸から眼下に広がる町並みと吉井川・吉野川、山並みの光景は素晴らしい。
城の縄張りは、山頂から半島状に突出した尾根の先端部に楕円形の本丸を構え、本丸の先端部下に2ヶ所の腰曲輪を備え、東約300mに太鼓丸(出丸)を構えている。
本丸の手前(南西)には堀切があり、その東側下には山裾へと落ちて行っている竪堀も見られる。
本丸から鞍部を経て約100mほど離れた山頂側の尾根の小峰には二の丸が設けられているが、その間の距離を考えると、むしろ出丸と考えた方が良いような?
また、本丸から谷を隔てて約500mほどにある大仙山城を三の丸と考えた場合、尾根筋、別峰にそれぞれ出城的に独立した一城別郭式の連郭式山城といえる。そうなると、これほど大規模な城を、一介の名主(或いは国人か?)が持てるか疑問になってくるが・・・?
又、二の丸の背後約50mの所には周匝池田家歴代当主の墓所があるが、城郭土壇を活用して造成された可能性も考えられるようだ。
尚、池田氏の周匝陣屋は、現在の備作高校隣の周匝幼稚園・保育所一帯にあったそうだ。
(2011/09/23登城して)

ギャラリー

茶臼山城と大仙山城郭配置図(第2駐車場説明板より)
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【登城記】
茶臼山城模擬天守遠景
茶臼山城を目指し、周匝に入ると山上に天守閣が見えてくる。模擬天守とはいえ、山上に聳える天守閣の姿はやはり絵になる。
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第2駐車場
B&G海洋センターの広い駐車場の中を道なりに進み700mほど進むと城山公園第2駐車場へ出る。駐車場脇(池田家墓所の脇)に「城山公園」の石碑と茶臼山城と大仙山城などの縄張略図と配置図が載った説明板が立ち、城域に入ったのが分かる。
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池田家墓所
寛永9年(1632)に岡山藩主池田光政が鳥取より転封に当り、国老池田伊賀守長明が配され周匝他2万2千石を賜り当地に館を築いて以来、初代より7代まで代々藩主の墓所である。この墓所の場所は、城郭土壇を活用して造成された可能性も考えられるようだ。
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大仙山城登城口
墓所の中ほどに大仙山城への登城口があり、説明板も設置されている。なかなか魅力的な山城のようだが、既に3城を廻り、時間もPM5時前だったので断念し、次回に持ち越し(;>_<;)。
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二の丸跡
第2駐車場から400mほど行くと、左手に二の丸跡がある。二の丸は、小郭を連郭し構えている。本丸から約200ほど離れた小峰にあり、出丸といった方が相応しいような?
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模擬天守
二の丸跡を過ぎ、道なりに200mほど車を進めると尾根鞍部へ出、その上に模擬天守が見えてくる。鞍部部分が第1駐車場になっている。
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天守下(本丸南西)の堀切
駐車場から模擬天守に向かうと左手に堀切が見える。なかなか立派なものだ。
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模擬石垣と冠木門
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竪堀
右手崖下を見ると、竪堀が2筋、山裾へ落ちていっているのが明確に確認できる。一般的に竪堀は、写真にすると分からないのが多いが、この竪堀はなかなか見事なもので、写真でもはっきり分かるほどだ。
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腰曲輪
本丸の南東下には腰曲輪が見える。その手前やや下(写真中央)に直径10m近いような大きな穴が見えたので、井戸かと思ったが、模擬天守の管理人の方に尋ねたら、井戸ではなく一種の空堀というか落とし穴みたいなものだそうだ。
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本丸から腰曲輪を
本丸跡に登り、先程(上写真)の腰曲輪を見下ろすと、その向こうに吉井川と吉野川の合流するのが見える。
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本丸から北方面の眺望
本丸から見下ろす吉井川と町並み、山並みの眺望は実に素晴らしい。真下の削平地は、本丸北東部の腰曲輪。
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竪穴遺構(右)と移築民家(左)
本丸跡には模擬天守の他、復元された竪穴遺構と移築民家が建っている。説明板に「竪穴遺構が、戦国時代の城郭で発見されるのは珍しい。」とあったが、そりゃそうだろう。しかもこんな山のテッペンに(笑)。また、移築民家は、江戸時代末期に建てられた商家で、昭和初期まで吉井川を往来していた高瀬舟の舟宿だそうだ。
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