足利将軍義晴と義輝が京都の兵乱を逃れ滞在した館
別名
朽木館
所在地
滋賀県高島市朽木岩瀬374(興聖寺:TEL0740-38-2103)
形状
館
現状・遺構
現状:興聖寺
遺構等:曲輪、土塁、石垣、空堀、説明板
満足度(10点満点)
4点
訪城日
2007/12/22
歴史等
享禄元年(1528)に12代将軍足利義晴が京都の兵乱(三好松永の乱)を避け、朽木稙綱(たねつな)を頼りこの地に身を寄せる。
この時、稙綱が将軍のために造営したのが岩神館である。
その時、佐々木一族や京極高秀、浅井亮政、朝倉孝景の協力で将軍を慰めるため、管領細川高国に依頼し、京都銀閣寺の庭園をもとに、今に残る
「旧秀隣寺庭園(足利庭園)」を作庭献上した。義晴はこの地に3年間余りも滞在した。
また、13代将軍義輝も家臣細川幽斎(藤孝)を従え6年半程滞在した。その折、幽斎は熊川城主(沼田氏)の娘を迎え、忠興が誕生した。
『「興聖寺パンフレット」、「朽木資料館内資料」より』
現況・登城記・感想等
朽木谷はいろんな時代小説で将軍足利義輝が細川藤孝に連れられ落ち延びて来る所であり、物凄い山間部の狭い場所のイメージがあったが、
想像していたよりも空が広かった。ただ、寒さと言うよりも、湿り気のあるこの冷たさはかなりのものである。
義晴や義輝、また藤孝も、京の都を離れ、この寒い所に潜んで、次の行動を考えながら過ごしていたんだなあなどと考えながら、
境内や墓地辺りを散策した、
岩神館の規模は東西約90m、南北約120mの方形館であったらしいが、遺構はかなり改変されているようである。
しかし、寺の横(西側)と裏(北側)にある墓地の背後にかなりの規模の土塁と空堀が残っており、南側には石垣も残っている。
こんなに遺構が残っているとは思わなかったので嬉しかった。
東側から北側にかけては急崖の河岸になっており、それなりに要害の地であったのが分かる。
そして、足利12代将軍義晴のために造られたという池泉鑑賞式庭園が残っている。さすが国指定史跡文化財だけあって、
蛇谷ケ峰を借景とした庭は見事である。
また、寺には朽木時経が千早城焼討ちの際の戦利品として持ち帰ったという
「楠木正成の念持仏(縛り不動明王坐像)」が祀られている。ヒェエ~!!
(2007/12/22登城して)
ギャラリー
㊧興聖寺、 ㊨楠木正成の念持仏「縛り不動明王坐像」(パンフレットより)
興聖寺には朽木時経が千早城焼討ちの際の戦利品として持ち帰ったという
「楠木正成の念持仏(縛り不動明王坐像)」が祀られている。ヒェエ~!!
墓地と背後に土塁
館の遺構はかなり改変されているようであるが、寺の横(西側)と裏(北側)
にある墓地の背後にかなりの規模の土塁と空堀が残っている。この墓地は寺の横(西側)の墓地。
西側の土塁
北側の土塁
この土塁の高さは内側からでもかなりの高さがあり登るのが大変だった。降りるときに滑り落ちてしまった。
北側土塁裏の空堀
この空堀は相当な深さがあり、その奥は曲輪跡なのか、削平地になっていた。
石垣
寺の住職に聞くと、この石垣も作庭時に穴太衆を呼び築かせたものだとのこと。この写真は一番東側になり、
ここから左(西)へと50m以上繋がっている。
東側の急崖になった河岸
東側から北側にかけては急崖の河岸になっており、それなりに要害の地であったのが分かる。
旧秀隣寺庭園(足利庭園)
佐々木一族や京極高秀、浅井亮政、朝倉孝景の協力で将軍を慰めるため、管領細川高国に依頼し、
京都銀閣寺の庭園をもとに、作庭献上した。さすが国指定史跡文化財だけあって、蛇谷ケ峰を借景とした庭は見事である。