河内 千早城(千早赤阪村)

城内で最も広い四ノ丸跡

楠木正成が小勢で鎌倉の大軍を釘付けにし、幕府滅亡のきっかけとなった城

所在地

大阪府南河内郡千早赤阪村千早

形状

山城(標高標高673mの尾根に位置、下を通る府道との比高150m)

現状・遺構等

現状:山林、千早神社
遺構等:曲輪、土塁、空堀、烽火台跡、石碑、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

1996/09/08
2007/11/18

歴史等

元弘2年(1332)楠木正成が、赤坂城の詰の城として築城(上赤坂城を本城に、 下赤坂城を前衛とし、 周辺に多くの支砦を構えた)。
同3年(1333)、赤坂城を攻略した北条氏の大軍が押し寄せたが、千人足らずの小勢の奇襲攻撃のゲリラ戦術に敗退を繰り返した。この時、 正成は100日間籠城し、鎌倉勢を釘付けにした。これが鎌倉幕府滅亡の切っ掛けとなった。
以後、千早城は楠木氏の根拠地となったが、元中9年(1392)楠木正勝の時に北朝方の畠山基国に攻略され落城、廃墟となった。
標高約660メートルで、城の南(妙見谷)、北(風呂谷)、西(大手口=現在地)の三方は急斜面で、府道との比高は150メートル。 東方だけが尾根伝いに金剛山に通じる天然の要害である。五百数十段の石段を登ると四の丸があり、それより本丸までの奥行が約300メートル、 その比高は約30メートルである。
『参照:日本城郭大辞典(新人物往来社刊)、現地説明板』

現況・登城記・感想等

石段を登りきった所が四の丸跡で城内で一番広い曲輪である。現在、城跡は千早神社の境内となっていて、千早神社社殿が本丸、 神社社殿一段下付近が二の丸、茶店付近が三の丸となっている。
登城道は、結構きつい階段である。ひたすら登る続けること約15分ほどで、四の丸跡へと出る。約560段ある。当時は、 こんな整備された石段はなかったであろうし、周りをみると正に絶壁である。絶壁で囲まれていないのは、城の背後の大阪府の最高峰・ 金剛山山頂へ繋がるところだけである。こんな所、攻め上がるのでなく、ただ登るだけでも大変だ。その上、上から岩石や巨木、 そして熱湯や糞尿、挙句の果ては油と火種が降り注いできたらたまったもんじゃない。
鎌倉幕府の大軍が攻めあぐねたのも当然であろう。おまけに、相手の大将は軍神・楠木正成である。
(1996/09/08、2007/11/18登城して)

ギャラリー

千早赤阪村の史跡案内図
千早城の近くには、本城である上赤坂城や出城の下赤坂城があり、楠正成の生誕地もある。

登城口からのいきなりの強烈な石段

とにかく登りがきつい!ただひたすら登る。約560段ほどある。

登る続けること約15分ほどで四の丸跡へと出る。
四の丸は城内で一番広い曲輪である。
千早城 四の丸跡

四の丸からの眺望
登ってきた方を振り返って見下ろすと、こんな素晴らしい眺望が。

石碑
千早神社の一段下・二の丸跡に

千早神社(本丸跡)
社殿のあたりが本丸、手前一段下は二の丸跡

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