河内 上赤坂城(千早赤阪村)

本丸にたつ2基の城址碑

鎌倉勢の大軍を相手に戦った楠木正成の本城

別名

小根田城、桐山城、楠木本城

所在地

大阪府南河内郡千早赤阪村桐山

形状

山城(標高:349.7m、比高:150m)

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:本丸、二の丸、茶碗原、土塁、堀切、算盤橋、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2007/11/18

歴史等

元弘元年(1331)10月21日、下赤坂城落城後、 楠木正成は金剛山上の転法輪寺を中心に、千早城・ 上赤坂城を築き、河内・和泉両国の寺院と結び摂津方面に進出し、南紀の大塔宮と連絡を保ちながら、再挙の期を待っていた。
そして翌2年(1332)4月に再起し、鎌倉方の湯浅定仏を奇襲して再び下赤坂城を奪回した。 上赤坂城には平野将監・楠木正季ら300が守衛した。
元弘3年(1333)鎌倉勢8万余騎(かなり大袈裟)が攻め寄せ、数にものをいわせて攻め寄せたが、四の木戸で敗退した。 ようやく落とし得たのは、裏山に隠されていた城の水の手を発見し、絶ったためである。
糞尿を敵にかけた奇策は「糞谷」という地名になって残っている。
城の遺構は、曲輪・堀切・竪堀・横堀で構成されている。遺構からみると戦国時代に改修されているが、それ以前と考えられる遺構も残っている。
『「千早赤阪の史跡(社団法人・千早赤阪楠公史跡保存会刊)」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「現地説明板」参照』

現況・登城記・感想等

前回、千早赤阪へ来た時には、あまりの藪で登城を諦めたが、今回は登城口(一の木戸のすぐ下)まで車で行けることができ、 しかも登城道もきれいに整備され気持ちよく散策をすることが出来た。
最初から堀底道のような両側が土塁になった細い道を登って行く。この道は何とも赴きがあり、往時を思い起こさせてくれるようだ。
途中堀切があり、そこに「そろばん橋」という土橋がある。何故、この名が付いたんだろうか?
そして、茶碗原へと出る。ここから左へ行くと二の丸、右へ行くと本丸へと出る。
この辺りから、今回の長旅で多くの写真を撮ったため、デジカメのメモリーチップの容量が不足。 撮った写真を少し消して撮ろうとするがなかなか・・・。
二の丸は雑木林状態で藪がひどかった。おまけに撮ったつもりの写真も帰って来て見たら撮れてなかった。
本丸には、「楠木城址(上赤坂城址)」と「上赤坂城址」という大小2つの石碑建っている。ここからの眺望は素晴らしく、葛城山・ 二上山もよく見える。
本丸奥には腰曲輪のような一段低い曲輪があり、木々の隙間から金剛山が見える。
遺構自体はそれほどのものが残っているわけではないが、ここはやはり「楠木正成の合戦」を偲ぶ場でしょうね。
(2007/11/17登城して)

ギャラリー

上赤坂城の図(現地説明板より)

登城口(右奥の山が本丸)

一の木戸
登城道から登るとすぐ一の木戸に出る。すぐ手前に説明板が設置されている。

堀底道?
一の木戸から入ると、しばらくこの堀底道のような道を登城する。結構趣がある。

二の木戸
堀底道を出ると、二の木戸へと出る。しばらくこのような右側が崖の細い道を通る。

堀底道と細い道
そして、またまた堀底道を。そして四の木戸あたりまで、右側が崖の細い道との繰り返し。
 

そろばん橋
四の木戸手前に、堀切があり 「算盤橋」と名付けられた土橋がある。名前の由来が分からない。知ってる方がいらっしゃったら教えて下さい。

算盤橋横の堀切
算盤橋両側の堀切は、山裾まで続いているようであった。

本丸に建つ2基の石碑
小さい方は、昭和11年南河内郡東部教育委員会が建立したもの。大きい方は、 昭和10年に大楠公600年祭記念事業として、この石が造られ、山下まで運ばれたが、第二次世界大戦に突入したため、 そのままにされていたが、昭和58年楠公史跡保存会によりここに建立されたものである。

本丸から北東方面の眺望(本丸からの眺望は素晴らしく、葛城山・二上山もよく見える)

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