河内 下赤坂城(千早赤阪村)

千早赤阪中学裏に建てられた城址碑

後醍醐天皇の義兵募集に楠木正成が河内に帰って急遽築城・挙兵した城

所在地

大阪府南河内郡千早赤阪村森屋(千早赤阪中学の裏:西側)

形状

平山城(標高:185.7m、比高差:61.4m)

現状・遺構等

現状:千早赤阪中学、畑
遺構等:石碑、説明板

満足度

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訪城日

1996/09/08
2007/11/18

歴史等

鎌倉時代後半から南北朝時代にかけて活躍した楠木正成(1294?~1336)によって築城されたといわれています。
元弘元年(1331)9月に、鎌倉幕府倒幕計画が発覚し後醍醐天皇が吉野へ逃れました。
笠置行在所において義兵を募られると楠木正成は早速はせ参じ、河内に帰って急きょ築城したのが下赤坂城である。 これにあわせて、護良親王を迎えて挙兵しました。
笠置落城後、10月に鎌倉勢は勢いにのって攻め寄せてきたが、その軍勢は1万騎(太平記によると20万騎)という。 迎え討つ楠木勢はわずか500余騎にすぎなかったが、複壁熱湯の計により敵をおおいに悩ました。
しかし、正成は深く考えるところがあって、10月21日自ら城に火を放って金剛山にのがれ、翌年4月に再起し、 鎌倉方の湯浅定仏を奇襲して再び城を奪回した。
湊川で正成が戦死した後、正儀がこの城にたてこもったが、正平15年(1360年)当城を捨てて金剛山に退いた。
現在では、当時の面影をうかがい知るのは困難であるが、本丸、二の丸、三の丸跡があり、地名に『一の木戸』『甲取坂』『出合』『屏風塚』 『王院の御所』などが残っている。
千早赤阪村役場の上附近が本丸であったといわれています。
『現地案内板より』

現況・登城記・感想等

石碑の場所を取りあえず何とか探し、辿り着いたといった感じであった。
それは、中学校の裏の小高い畑?に石碑があった。そこが本丸跡らしいが、周りは草むらだけといった感じであった。どこが二の丸やら、 どこが三の丸やら全く分からなかった。また時間がない上、夏場で草茫々。上赤坂城も途中の道で諦めてしまった。
(1996/09/08登城して)

久し振りに寄ってみた。
石碑以外に特に遺構らしきものは残っていないが、高台になった地形と学校下の崖等から、天然の要害の地を選んで築城されたのが分かる。
また、この辺りは日本棚田100選の一つだそうだが、石碑のあるところから見下ろすと、まるで段曲輪のような棚田の景色が美しい。
また、楠木正成の生誕の地に道の駅が出来て、ピクニックの方で一杯だった。
(2007/11/17登城して)

ギャラリー

千早赤阪中学の裏(西側)に建つ石碑
逆行で、写真を撮るのが大変だった。前回より土塁等が立派になっており、説明板の位置等も変わっていた。

石碑から眺める棚田
この辺りは、日本棚田百選の一つとのこと。石碑のあるところから見下ろすと、 まるで段曲輪のような棚田の景色が美しい。

近くの楠正成の生誕地
道の駅が出来ており、ピクニックの方で一杯だった。
ここ千早赤阪村水分山ノ井に楠木家の邸があり、正成はここで生まれたとされる。両親に子供が出来なかったので、 信貴山の多聞天に願いをかけて授かったという。それで幼名を多聞丸とされたという。
碑銘は誉田八幡の神官・桃井春蔵名直正(幕末の3剣豪の一人)である。

楠木正成産湯の井戸
道の駅から畑の中を200mほど行った所に。

最初の登城時(1996/09/08)にも、上赤坂城へも登城したかったが、 あまりにも草茫々で諦めた。
2度目の登城(2007/11/18)で念願がかなった(ちょっと大袈裟?)

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