鎌倉幕府14代執権北条高時の弟慧性が築いた水城
所在地
群馬県邑楽郡邑楽町鶉新田(多々良沼公園)
形状
平城(水城)
現状・遺構
現状:多々良沼公園
遺構等:曲輪、土塁、堀、説明板、標柱
満足度(10点満点)
3点
訪城日
2008/01/08
歴史等
鶉(うずら)古城は、多々良沼に突出した荒間崎と呼ばれた半島部に築かれた城である。城名については、江戸初期には、
この名称が使われていたものと思われる。
元弘3年(1333)5月、北条高時が鎌倉に滅ぼされたとき、その弟の僧慧性・荒間朝春らは共に逃れて来て、ここに築城した。
応永年間(1394~1428)には多々良四郎忠致の居城となり、さらに戦国時代を迎えると、館林城主の重臣で下野国小曽根郷八形
(足利市高松町)城主小曽根政義は小田原北条氏の来攻に備え、兼帯で当城を守備した。
しかし、天正18年(1590)、館林城落城に伴い廃城となり、
鶉古城250余年の歴史を閉じた。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
鶉古城のある多々良沼には、多くの野鳥が飛来し、1月から3月にかけては白鳥が越冬するようである。また、その景観も素晴らしく、
今朝もまだ朝7時前だというのに、野鳥観察者や写真愛好家が訪れていた。
確かに、東から昇る太陽が、沼に反射し真っ赤に染まった朝焼けの光景は素晴らしい。私も、まずは、
霜が降りて真っ白になった公園の芝生の上を東の方に向かって歩いて行き、しばらくはその光景に見とれていた。ただ、とにかく寒い。気温は-
2度である。
さて、鶉古城であるが、城址は森林の公園になっており、その北側に駐車場がある。
駐車場のすぐ前に多少浅くなってはいるが、西の方へと結構長く伸びた堀が残っている。
東側には綺麗に整備された水堀があるが、ここは往時とは多少改変されているかもしれない。その外側は桜並木になっている。
南側には非常に長い藤棚があり、堀跡のような水路がある。
西側には高さ3m、長さ250mほどの立派な土塁があり、城址説明板と標柱が設置されている。土塁の外側(西側)には、
浅くなった空堀も残っている。往時は、南北と東の三方を沼に囲まれた城地を、この土塁や空堀で断ち切っていたのであろう。そして、
この辺りの遺構が、この城の一番の見どころであろう。
鶉古城は、野鳥公園になっているようで、あまり期待していなかったが、意外にも遺構がよく残っている城であった。
(2008/01/08登城して)
ギャラリー
多々良沼公園から見る朝焼けの風景
東から昇る太陽が、沼に反射し真っ赤に染まった朝焼けの光景は素晴らしい。私も、まずは、
霜が降りて真っ白になった公園の芝生の上を東の方に向かって歩いて行き、しばらくはその光景に見とれていた。ただ、とにかく寒い。気温は-
2度である。
駐車場前の堀
駐車場のすぐ前に多少浅くなってはいるが、西の方へと結構長く伸びた堀が残っている。
東側の堀
東側には綺麗に整備された水堀があるが、ここは往時とは多少改変されているかもしれない。
その外側は桜並木になっている。
南側には藤棚が
南側には非常に長い藤棚があり、堀跡のような水路がある。藤棚の奥に水路が。
西側の土塁と堀
西側には高さ3m、長さ250mほどの立派な土塁がある。土塁の外側(西側)には、
浅くなった空堀も残っている。往時は、南北と東の三方を沼に囲まれた城地を、この土塁や空堀で断ち切っていたのであろう。そして、
この辺りの遺構が、この城の一番の見どころであろう。
西側土塁の内側に説明板と標柱が
写真奥は、西側土塁。素晴らしい朝焼けで、この写真の土塁等も赤く染まっている。
西側土塁上から曲輪内を
土塁は、櫓でも建つほどのかなりの幅を持っている箇所がある。
城址南西に古墳が
最初は、土塁の一部かと思ったが、古墳らしい。