信濃佐久地方の戦国武将依田信蕃の子康勝の居城
別名
芦田城
所在地
群馬県藤岡市1848藤岡第一小学校(TEL0274-22-0549)
形状
平城
現状・遺構
現状:藤岡第一小学校他
遺構等:土塁、城址プレート
満足度(10点満点)
2点
訪城日
2008/01/08
歴史等
信濃佐久地方で活躍した依田氏は武田氏滅亡後、徳川家康に仕えた。中でも依田信蕃は勇猛で知られ、家康に佐久地方の統一を命じられ、
見事にそれを果たしたが、岩尾城攻めで深入りしたために弟源八郎とともに討死してしまった。家康はその勇猛を称え、天正14年(1586)
信蕃の嫡子康国と弟新六郎康勝に松平姓を与え、康国を小諸城主に抜擢した。
天正18年(1590)小田原の陣に際し、康国は前田利家軍に属して上野松枝城や西牧城を攻め落し、石倉城を諭降させた。
ところが、城主金井秀景が出城して康国の陣営に来会した時、康国は秀景に殺害された。その場にいた弟康勝は秀景を討ち取り、
兄の遺領の小諸城主となった。
同年8月、家康の関東入部に伴い、康勝は上野国緑野、武蔵国榛沢両郡内において3万石を与えられて、緑野郡藤岡に居城して立藩した。
慶長5年(1600)1月、康勝は大坂で囲碁をうっていた時、小栗三介と争論となり三介を殺害し、
越前に出奔したため所領は没収されて廃藩となった。
『国別・藩と城下町の事典(東京堂出版刊)参照』
現況・登城記・感想等
藤岡城は、今は藤岡第一小学校の北側に土塁を残すのみである。しかし、その規模は壮大で往時の威容が偲ばれ、
これが四方に残っていたらどんなに見事だったろうと思ってしまう。
土塁上は遊歩道になっている。
土塁の西側面内側(小学校側)に藤岡城の別名『芦田城址』のプレートがはめ込まれている。
(2008/01/08登城して)
ギャラリー
土塁を内側(小学校側)から
土塁上は遊歩道に
別名「芦田城址」プレート