上野 石倉城(前橋市)

群馬県庁の利根川対岸の小さな公園に石碑と説明板が

上野国守護代長尾忠房の嫡子・憲景が築城、北条・上杉・武田氏の抗争の波に

所在地

群馬県前橋市石倉町5丁目(群馬県庁の利根川対岸)

形状

崖端城

現状・遺構等

現状:二の丸公園、外堀公園、宅地
遺構等:石碑、説明碑

満足度

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訪城日

2001/08/17
2007/10/04

歴史等

石倉城は文明17年(1485)上野国守護代長尾忠房の嫡子、長尾憲景が築城した。 橘山の麓より利根川の水を久留馬川という小流を利して城の堀に引き入れたという。
山内・扇谷両上杉氏が相争い、その間隙を突いて北条早雲が関東進出を企て、いよいよ戦国時代の様相を帯びてきた。長尾憲景は永正9年 (1512)新井城の戦いで戦死、 三男長景が城主となった。永禄6年(1563)武田信玄の西上野への進攻に際し、長景は厩橋城の守りについたが、 留守を信玄が乗っ取り、城代として曽根七郎兵衛、與左衛門の兄弟を置いた。
永禄8年(1565)越後の上杉謙信がこれを攻めて奪還し、荒井甚六郎を城代として守らせた。石倉城は関東の要衝であるため、永禄9年 (1566)7月、再度信玄に攻め取られ、武田の武将内藤修理亮政豊及び外記親子が兼帯した。
その後内藤政豊は長篠の合戦で討死にし、外記は厩橋城代北条(きたじょう)丹後守高広に降り、北条の臣である寺尾左馬助(石倉治部) が守った。この間八十有余年にわたり幾多の攻防と凄惨な流血の歴史をくりかえし、天正18年(1590)5月、 徳川勢の進攻に対し寺尾佐馬助は井野川の戦いで奮戦したが、戦い利あらず石倉城に退いた。左馬助を始め城兵は死力を尽くして戦ったが、 武運つたなく今はこれまでと城に火を放ち落城の運命となった。死闘を尽くして戦った城池も、戦国の世と共にまぼろしの彼方に消え去り、 今はただ「石倉」という地名を残すのみとなった。
平成3年3月吉日  石倉史蹟愛好会撰文 
『石倉城外郭図(説明板より)』

現況・登城記・感想等

石碑(福田赳夫元総理書)と案内板以外に遺構は何もなく、ただ前橋城 (群馬県庁)の利根川の対岸の小さな城跡(公園)といった感じである。
歴史的には、上杉氏・武田氏・後北条氏の争奪戦の真っ只中に位置し、壮絶な戦い等々があったようだが、 今の公園からは往時の様子を知るよすがもない。
(2001/08/17、2007/10/04訪城して)

ギャラリー

石倉城外郭図(現地説明板より)
現在では、流れが変わった利根川の浸食により、主な部分は崩落してしまっているのがよく分かる。 また残った部分も一部二の丸公園となってはいるが、ほとんどが宅地化により消滅してしまっている。

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