幕末、藩主自らが脱藩し、幕府残党とともに官軍と戦った
所在地
千葉県木更津市請西(木更津中央霊園の真向かい)
木更津中央霊園:千葉県木更津市請西1146-5、電話0438-36-4123)
形状
陣屋
現状・遺構
現状:藪
遺構等:石碑、説明板
満足度(10点満点)
1点
歴史等
林家は徳川家の祖親氏以来股肱の家として知られた。
林家は信濃小笠原家の分家で、親氏がまだ徳阿弥と称した流浪僧の頃、信濃林郷(松本市)に立ち寄り止宿し、元旦に兎の汁を供されたことから、
諸侯に先立って林家の当主に将軍から兎の吸い物と杯を賜るのが江戸幕府の正月行事の慣例であった。
11代将軍徳川家斉のお側御用人であった林忠英が、若年寄に昇進して1万石の大名となり、文政10年(1828)貝淵陣屋を構えた。
忠英は、その後更に、8千石を加増され、合わせて1万8千石を領有した。
しかし天保12年(1841)1月、家斉が没すると忠英は若年寄の職を免ぜられ、同時に加増分の8千石も収公され、
さらには7月には隠居を命ぜられた。
忠英は幸いにも大名の地位は保つことができ、後継者の嫡男忠旭は嘉永3年(1850)に請西の地に新たに真武根陣屋を築いて立藩した。
忠旭のあとを継いだ忠交は大番頭・伏見奉行をつとめ、慶応3年(1867)6月、在職のまま没した。そのあとを、忠旭の末子忠崇(昌之助)
が継いだ。
戊辰戦争の火蓋が切られるや忠崇は幕府軍応援のため、海路大坂へ向かった。途中、浦賀で徳川の敗報を聞き、江戸に戻った。
剣客の伊庭八郎ら幕府残党と組み、反政府の旗をあげた。大名自らが脱藩して官軍と戦うことになったのである。
彼らは、まず南下して小田原藩の佐幕派と組み、
箱根の関を新政府から奪ったが、その後敗れて海路安房館山に戻った。そこから榎本武揚とともに咸臨丸で東北へ転じ、奥州小名浜(いわき市)
へ逃れ、平、米沢、白石、仙台と転々とし、9月21日ついに新政府軍に降伏した。この出陣の際、自ら火を放ち真武根陣屋は焼失した。
結局、請西藩は取り潰しとなり、戊辰戦争で消えたただ一つの藩となった。
忠崇は死一等を減ぜられ、東京の唐津藩邸に禁錮された。明治4年(1871)釈放され、昭和16年(1941)まで生きた。94歳であった。
昭和まで生き残った「最後の殿様」としてそれなりに人気を集めたそうだ。
『「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」、「大名の日本地図・中嶋繁雄著(文春新書刊)」、「江戸300藩最後の藩主・八幡和郎著
(光文社新書刊)」、「現地説明板」参照』
現況・登城記・感想等
真武根(まぶね)陣屋跡は、遺構がほとんど残っていないらしいことは知ってはいたが、最後の破天荒な藩主に興味があり、
一度は来てみたかった。
遺構がほとんど残らず、石碑等のみが建っている所ほど捜すのが難しい。この真武陣屋跡も、当然、地元の方も知らず、今日で2回目の捜索だ。
何とか、「木更津中央霊園」の真向かいの藪の中に、結構立派な石碑と説明板を見つけた。ちょっとした高台にあることだけが、
往時を偲ばせてくれるかな?
この石碑の裏辺りが、陣屋跡であるらしいが、発掘調査を全くしてないのか、ひどい藪で、荒れ果てた広い原野と言った感じである。
発掘したら結構、見どころが多い陣屋跡なのでは??
(2008/09/11訪れて)
ギャラリー
石碑
石碑は2つあり、どちらにも説明が刻まれていたが、薄くなっていて読めなかった。
陣屋跡は藪・藪・藪・・・
石碑の裏は藪・藪・藪で、まさに広大な原野状態。ここまで荒れ果てていると却ってかっこいい?! ここへは、
さすがに入っては行けないですよねえ。この付近は、かなり開発が進んで、分譲地だらけだったけど、
ここも近い内に分譲されるのではと心配になってくる。