上総 佐是城(市原市)

内曲輪跡の光福禅寺へのカーブする虎口

真里谷城と庁南城の中間にあった上総武田氏の拠点の城

所在地

千葉県市原市佐是(明性院、光福禅寺一帯)
光福禅寺:佐是1097、電話:0436-92-1335

形状

平山城

現状・遺構等

現状:明性院、光福禅寺、山林
遺構等:曲輪、土塁、空堀、井戸、標柱、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2008/09/02

歴史等

佐是(さぜ)城は、鎌倉時代に、佐是禅師円阿(佐是四郎祥師説もある)が堀の内地籍に「館」を構えたのが始まりといわれる。
主郭や明性院のまわりの地は、館が襲われた時に、一族の身を守る為に造られた砦の役目をした所のようである。
時代が下がり、天文19年(1550)、武田三郎国信が城主に命じられた。国信はこの地に入るとすぐに、 佐是氏の築いた砦を戦国時代に相応しい大規模な城に造り変えた。国信の子孫は、天文21年(1552)、椎津合戦に籠城軍として入り、 討死した。
今残る城址は、その後、更に手を加えた城となっている。
『光福禅寺駐車場脇の説明板ほか参照』

現況・登城記・感想等

佐是城址の見どころは、本来は明性院の周りから、本丸跡を含む南方面のようだが、あまりの暑さと強烈な藪に恐れをなしてしまい、 光福禅寺周辺だけになってしまった。
それでも、結構急な切岸や古墳を利用した喰い違い虎口等々、戦国城址の雰囲気は味わえたような気がする。
しかし、佐是城は規模も大きく、見どころもかなり多いようだ。冬の草が枯れている時にでも再登城したいものである。
(2008/09/02登城して)

ギャラリー

佐是城縄張略図(光福禅寺駐車場脇の説明板より)  ~クリックにて拡大画面に~

佐是城址全景(北東部の小湊鉄道付近から撮影)
右の山の左側辺りが光福禅寺、左の山が主郭周辺。主郭周辺には集落があり、道は非常に狭く、勿論、駐車できるような所も見付からなかった。 光福禅寺の駐車場から歩いて行けばいいのだが、あまりの暑さと強烈な藪に恐れをなして引き返してしまった。情けない(泣)。
 

光福禅寺
ここも城域であり、寺の脇(写真左)には「佐是城址・内曲輪」の標柱がたっている。

古墳
城域の北部分は古墳群で、写真の古墳(光福禅寺のすぐ西)も土塁として利用されていたようだ。 この古墳の奥は虎口となっており、往時は古墳の上に櫓が建っていたのではと思う。

虎口
光福禅寺のあった曲輪への虎口で、右側土塁は上写真の古墳である。また、表紙写真は、 この虎口を登り切った上から撮ったものである。

土塁
光福禅寺の北東方向に、この大規模な土塁(高さは約5m?)を発見!あまりに規模が大きく、 しかも綺麗に整備されていたので、佐是城の遺構かどうか自信がない。知ってる方がいらしたら教えて下さい。

光福禅寺への表参道
光福禅寺へは西側から表参道が続くが、この階段と切岸は、何とも風情がある。尤も、 この切岸や結構広い道は往時のものではないかもしれないが・・・。しかし、道の左下の削ったと思われる崖は強烈で、 この程度の切岸は当時から削られていたものと思われる。

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コメント

(2008/12/31)

妙性院ではなく、正しくは「明性院」です。 また、光福禅寺は本丸つまり「主」ではなくあくまで明性院が佐是城の「主」です。

タクジロー(2009/01/01)

誤字、大変失礼しました。至急訂正します。
明性院一帯が主郭ですね。残念ながら、この時の登城では、あまりの暑さと強烈な藪で、肝心の主郭周辺は断念しました。

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