近江 田中城(高島市)

天守跡

織田信長が越前の朝倉氏攻めの途次に逗留した城

別名

上寺城(うえでらじょう)

所在地

滋賀県高島市安曇川(あどがわ)町田中

形状

平山城(標高221m、比高差60m)

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:天守台、曲輪、土塁、空堀、竪堀、堀切、見張台、武者隠し、土橋、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2008/07/05

歴史等

田中城は泰山寺野台地から舌状にのびる支丘の先端に築かれている。
この地には、古代、山岳寺院・松蓋寺が建っていた。田中城は、戦国時代、その廃寺跡に、 近江佐々木一族の流れをくむ高島七頭の一つで田中郷領主であった田中氏により築かれたと思われる。
『信長公記』によると、元亀元年(1570)4月、織田信長の軍勢が越前の朝倉義景攻略の途次、田中城に逗留したとあり、 この軍勢には豊臣秀吉、徳川家康もいた。
その後、浅井長政の勢力下となったが、元亀4年(1573)、信長により攻略され、明智光秀の支配を受け終焉を迎えたが、 田中氏の流れをくむ田中吉政は秀吉、家康に相次いで仕えた。
吉政は、天正16年(1588)には近江八幡山城3万石を領した。 ついで三河岡崎城5万7千石をもらい、 隠居料として4万石を加え、豊臣家直料3万石の代官に任じられるなど厚遇された。
関ヶ原合戦では、徳川方に与して、岐阜城を攻撃、 また佐和山城攻略にも参戦し、 石田三成を捕えた。
戦後、その功績により筑後柳川城32万石に封じられた。
『「現地説明板」、「別冊歴史読本。激闘!戦国武将330傑(新人物往来社刊)」他より』

現況・登城記・感想等

城跡は整備され、順路案内板があったので、それに従って廻った。
まずは、城址碑から右手へ進むと竹薮の中に屋敷跡の土塁が現れる。これがなかなか綺麗で結構絵になる。
次に、階段を5分程登り、城内へと入って行くと、非常に多くの曲輪があり、段曲輪になっている。また、土塁、堀切、武者隠し等もあり、 下の方には怖くなるほど深い空堀もある。ただ、武者隠しは、案内板に「武者隠し」とあるが、「どう隠れるようになっていたのか」 は皆目見当がつかず、私には、ただの段曲輪にしか見えなかった(苦笑)。
天守台跡西側下には空堀と土塁があり、天守台跡へは、その堀底道を登って行く。この空堀と土塁もなかなかのものだ。
天守台跡からの眺望は南東方面だけが開けている。天守台北西側には土塁があり、「こんな大きな石、投げたら肩を壊すのでは?」 と思われるような「つぶて石」が残っている。
田中城は、登城前に想定していたよりも大きな城郭で、遺構もよく残っていて見応え充分なのだが、縄張図なしでの登城だったので、 全体像が今ひとつ掴み切れなかった。
(2008/07/05登城して)

ギャラリー

田中城縄張略図(現地説明板より)

①登城口
城跡は整備され、順路案内板(写真右中央)がある。順路に従い、右へと・・・。

②屋敷跡・土塁
竹薮の中に屋敷跡の土塁が現れるが、これがなかなか綺麗で結構絵になる。

③曲輪・土塁
ここら辺りの曲輪が一番広いようで、しっかりした土塁も残っている。

空堀
上写真の曲輪下には何段もの段曲輪があり、その下には、写真では見辛いが、怖いほど深い大規模な空堀がある。 全くの人工的なものではなく、自然の谷を利用して掘ったものだろう。

④武者隠し
写真中央やや左に「武者隠し」との案内板が設置されているが、、「どう隠れるようになっていたのか」 は皆目見当がつかない。私には、ただの段曲輪にしか見えなかった。

⑤堀切

⑥観音堂への石段と⑦観音堂
観音堂は、元亀3年(1572) に織田信長の兵火によって焼失した高島七ヶ寺の一つ松蓋寺の一堂宇であるとのこと。
 

⑧松蓋寺跡
観音堂の一段上にほぼ方形の削平地があった。ほとんど消えかけたような字で「松蓋寺跡」と書かれた標柱 (写真中央やや左)が設置されていたが、城があった頃には、ここも重要な曲輪の一つであっただろう。

⑨天守台跡西側の空堀(堀底道)と土塁を下から見上げる
左側土塁の外側は絶壁になっている。写真右側土塁上が天守台跡である。天守台へは、この堀底道を登って行く。

⑨天守台跡西側の空堀(堀底道)と土塁を上から見下ろす

⑩天守北西の土塁上の「つぶて石」
「こんな大きな石を投げたら、肩を壊すのでは?!」と誰しも思いますよねえ!

⑪天守跡
天守台跡の北西部には3mほどの高さの土塁がある。

天守台跡からの南東方面の眺望
天守台跡からは南東方面だけが開かれているが、あいにくの天候で、 町並みと田園風景がうっすらと見えるだけであった。

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント