梶原景時の孫景親が築城、のちに小牧山合戦の舞台となる
所在地
愛知県犬山市羽黒字城屋敷(興禅寺の東約50mの小山)
興禅寺:犬山市羽黒字城屋敷16、電話0568-67-0032
形状
平城
現状・遺構
現状:住宅地(雑木林、興禅寺等)
遺構等:土塁、空堀、石碑、説明板
満足度(10点満点)
1点
訪城日
2008/09/24
歴史等
羽黒城は、建仁2年(1201)梶原景親(景時の孫)によって築城されたと云われる。
景時は、頼朝に信望のあった御家人で侍所の別当として権勢を誇っていたが、頼朝が死ぬと、しばらくして幕府によって誅殺された。
一部の遺族たちは、景時の孫・豊丸(のちの景親)をかこんで豊丸の乳母隅の方ゆかりの羽黒の地に逃れ、館を築き、代々住み着いた。
戦国時代になって、景親から17代目の景義は織田信長に仕えて、羽黒村3千石を領有していたが、本能寺の変で信長に殉じて討死し、
梶原家は絶え、廃城となっていた。
天正12年(1584)の小牧山合戦の際、秀吉がこの城を修復させ、
堀尾茂助や母方の法秀院が梶原家の出生と伝えられる山内一豊等に守らせたが、焼けてのち廃城となった。
『現地説明板より』
【小牧山合戦と羽黒城】
天正12年(1684)小牧長久手の合戦がはじまる時、大垣城主池田恒興は、
秀吉方につくことを決心したが、その手土産に、3月13日の夜半、織田信雄の支配下にあった犬山城を占領した。
家康が小牧山に着陣した3月16日の夜、
恒興の婿・森長可は舅に劣らぬ手柄をたてようと、小牧山の北6kmの羽黒城跡に進出した。
長可が羽黒に布陣したことを知った家康は、翌17日、酒井忠次・奥平信昌等に命じて羽黒へ向かわせた。
「鬼武蔵」と異名をとる長可はこれを迎え撃って八幡林で激戦を展開したが、徳川方の猛攻はすさまじく、ついに犬山をめざして敗走した。
「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)他より」
現況・登城記・感想等
興禅寺の東50mほどの住宅地の真ん中にこんもりとした小山(前方後円墳の前方部を利用しているようだ)があり、
その登り口に説明板が立っている。そこから入り、少し登ったところに石碑が立っている。木や竹が鬱蒼と生茂っているため、
石碑の文字さえ見えないくらい暗いが、その下は空堀になっているようだった。
また、興禅寺の鐘楼下にも説明板が設置されており、寺の裏手の垣根の中にも土塁があり、往時のもののようにも見えたが、果たしてこれは・・・
?
興禅寺は、梶原景時が建てたものだそうだ。興禅寺の山門脇には梶原景時との関わりについて刻まれた石碑がある。
(2008/09/24訪れて)
ギャラリー
興禅寺から羽黒城を望む
羽黒城址は興禅寺の東50mほどのところに見える小山(前方後円墳の前方部を利用しているようだ)である。
興禅寺の駐車場を拝借して住宅地の中を入って行く。
羽黒城址中核部入口
入口には説明板が2つあり、立て札風の説明板は、山内一豊に関係するということで、
2006年のNHK大河ドラマ「功名ケ辻」に合わせて設置されたもののようで、興禅寺にも立っていた。
城址碑
入口から、ほんの少し上がると結構大きな石碑が立っている。周りは鬱蒼と木々が生茂っているため、
暗くて字も読めないくらいだ。
空堀
あまりの暗さで見落とすところだったが、下を見ると結構深い空堀のようだった。
【興禅寺】
興禅寺は、梶原景時が建てたものだそうだ。鐘楼下にも羽黒城の説明板が設置されており、
興禅寺の山門脇には梶原景時との関わりについて刻まれた石碑がある。
㊧興禅寺本堂、㊨山門脇の石碑
土塁
寺の裏手の垣根の中にも土塁があり、往時のもののようにも見えたが、果たしてこれは・・・?