織田信雄が築城、後に蒲生氏郷が松坂城へと移す
別名
細首城
所在地
三重県松阪市松ヶ島町城の腰
形状
平城
現状・遺構
現状:田園、宅地
遺構等:天守台、石碑、説明板
満足度(10点満点)
1点
歴史等
松ヶ島はかつては保曽久美(細汲、細首とも書く)といい、参宮古道に沿い、三渡川の河口を控えた海陸交通の要衝であった。
松ヶ島城は、永禄10年(1567)北畠具教が織田信長の来攻に備えて築いた城で、初めは細首城と称していた。
ほんの小城で、たちまち織田軍に踏み潰されたが、北畠の家督を継いだ織田信雄(信長の二男)が大改修を加え、天正8年(1580)
南伊勢統治の居城を田丸城からこの地に移し、
松ヶ島城と称した。五層の天守がそびえていたという。
その後、信雄の家臣津川義冬、滝川雄利を経て、同12年(1584)豊臣秀吉の部将蒲生氏郷が12万石の大名として入城した。
ところが、氏郷は四五百森(よいほのもり)に着目して松坂城を築いて移り、
本城下の町人や社寺はすべて強制移住させられて、松ヶ島は瞬時にしてもとの一漁村に変容した。
古図や検地帳には天守跡・堀之内・丸之内・城之内・南之内・日の丸といった城郭名や、殿町・本町・西町・紙屋町・ほうく町・
鍛治町という町名が見え、往時の繁栄を偲ばせる。
ここに残る指定地は俗に天守山と呼ばれ、付近から金箔を押した古瓦片などが出土しており、本丸天守の跡と考えられる。
『「現地説明板」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」より』
現況・登城記・感想等
松ヶ島の集落のはずれの畑の中に、草に覆われたこんもりとした丘(天守山と呼ばれ、松ヶ島城の天守台跡と言われている)があり、
そこに石碑と説明板が立っているだけである。
せいぜい高さ4~5m、直径10m弱の小さな丘であるが、周りが真っ平なため、上って周りを見渡すと、見晴らしが良いのに驚く。
僅かに残る土塁とはいえ、さすが城跡だ。
ここを探すのに結構手間取ったが、地元の方に聞いたらすぐ分かった。松ヶ島の集落に入ったら、地元の方に教えて貰うのが一番だ。
(2008/09/25登城して)
ギャラリー
天守台跡からの眺め
せいぜい高さ4~5mの小さな丘であるが、周りが真っ平なため、上って周りを見渡すと、
見晴らしが良いのに驚く。僅かに残る土塁とはいえ、さすが城跡だ。