美濃 大垣城(大垣市)

戸田氏鉄(とだうじかね)騎馬の銅像と天守(右)と乾隅櫓(左)

関ヶ原合戦時、西軍の拠点に、戸田氏が11代居城し明治を迎える

別名

巨鹿城

所在地

岐阜県大垣市郭町

形状

平城

現状・遺構等

現状:大垣公園・市街地
遺構等:復元天守、復元乾隅櫓、復元艮(うしとら)隅櫓、復元西門、表門(現存内柳口門を移築)、東・北側の内堀の一部、石垣、石碑、 説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2004/02/09

歴史等

大垣城は、天文4年(1535)土岐氏の重臣・宮川安貞が築城したとも、近江源氏の流れをくむ竹腰尚綱が明応9年(1500) に築城したとも云われ、水門川の流れを外堀に利用して造られた規模の小さな城であった。その後、城郭の増築が行われたが、天正13年 (1585)豊臣秀吉は一柳直末を城主として天守閣の造営を命じ、天正16年(1588)になって完成したと伝えられる。
天正18年(1600)の関ヶ原の役では、時の大垣城主・伊藤盛宗は西軍に属していた。そこで石田三成は、大垣城に入城し、一時、 西軍の本拠とした。
関ヶ原の役後の慶長6年(1601)、家康は石川康通を大垣城主とした。その後、久松松平氏、岡部氏を経て、 寛永12年(1635)摂津尼崎城より戸田氏鉄(うじかね)が10万石で入封。以後、大垣城は戸田氏11代の居城として明治維新を迎えた。
大垣城の天守閣は四層四階建て総塗り込め様式の優美な城として400年余の間存在した。そして、昭和11年に国宝に指定されたが、 昭和20年(1945)7月29日に太平洋戦争の戦災により焼失した。昭和34年外観を昔そのままの容態で天守が再建され、さらに、 乾隅櫓と艮(うしとら)隅櫓、西門と内柳口門が復元された。
『参考:パンフレット』

現況・登城記・感想等

郡上八幡城が見本にしただけあって、流石に綺麗な城であり、名城中の名城であろう。せっかく明治維新を乗り越えたのに、 第二次大戦で燃えてしまったのは何とも残念である。
もともとは、水郷を思い浮かべるように、幾重にも水堀が巡らされている中にあったようであるが、 現在ではほとんどの水堀が埋め立てられてしまっているのも残念だ。
(2004/02/09訪城して)

ギャラリー

大垣城絵図(現地説明板より)
大垣城は、もともとは水郷を思い浮かべるように、幾重にも水堀が巡らされていたのがよく分かる。

復元された天守と乾隅櫓(左)、西門(右)
大垣城の天守閣は四層四階建て総塗り込め様式の優美な城として400年余の間存在した。そして、 昭和11年に国宝に指定されたが、昭和20年7月29日に太平洋戦争の戦災により焼失した。 昭和34年外観を昔そのままの容態で天守が再建され、さらに、乾隅櫓と艮(うしとら)隅櫓、西門と内柳口門が復元された。
その優美な天守は、郡上八幡城など多くの模擬天守がその形を真似て築かれている。
 

天守

内柳口門(左)と艮隅櫓(右)

大垣城内の滝

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