司馬遼太郎をして日本で最も美しい山城と言わしめた模擬天守
遠藤盛数(山内一豊の妻千代の父親との説がある)が築いた山城
別名
積翠城、郡城
所在地
岐阜県郡上市柳町一の平
形状
平山城(標高:353.95m)
現状・遺構等
現状:城山公園
遺構等:模擬天守、模擬城門、曲輪、石垣、堀切、井戸、碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2005/05/07
歴史等
承久3年(1221)下総の千葉氏の支流・東胤行(とうのたねゆき)が山田庄の地頭となり郡上東家の初代となった。
鎌倉末期の4代氏村の時に阿千葉城から移り、篠脇城を本拠とした。以後11代元胤まで8代、二百数十年間東氏の居城であった。天文9年
(1540)越前国朝倉氏が篠脇城に襲来したがなんとか撃退した。
しかしこれを機に急峻な赤谷山城へ移り、天文年間(1532~54)、13代目の常慶は、さらに険峻な東殿山城(いずれも八幡町)
を築いて移り住んだ。
永禄2年(1559)常尭(つねたか)は娘の縁組拒否の恨みから支流木越城主・遠藤胤縁(たねより)を陰謀を用い殺害した。同年8月24日、
遠藤盛数(もりかず)は兄・胤縁の弔い合戦の名目で東殿山城を攻め落した。
盛数は、はじめ東殿山城に入ったがあまりに険峻であったため新しく八幡山に城を築いた。尚、山内一豊の妻千代は、盛数の末娘(異説あり)
とされる。
天正16年(1588)、盛数の子、慶隆は岐阜城主・
織田信孝に通じていたため、豊臣秀吉により移封された。代わって稲葉貞通(稲葉一徹の二男)が4万石で入城し、城の大改修を行ったが、
慶長5年(1600)関ケ原の戦いで西軍に属したため移封となり、再び遠藤慶隆が二万七千石で入封した。
その後、井上氏・金森氏が城主となったが、宝暦8年(1758)青山幸道が四万八干石で入封し以後明冶に至った。昭和8年(1933)
八幡山天守台跡地に模擬天守等々が建造された。
『八幡城パンフレット参照』
現況・登城記・感想等
郡上八幡城の登り口に「山之内一豊とその妻(千代)と馬」の銅像が建っていた。「何故ここにこれが?」と不思議に思ったら、
この城は1559年に遠藤盛数により築城され初代城主になったが、その末娘が「千代」であるとのことであった(異説もあるが)。
城は山上と山下から構成され、山頂に旧本丸である桜の丸・松の丸を置き、この平坦地が江戸時代の本丸跡(旧二の丸)で、
江戸時代にはこの山下部が実質的な城郭機能を果たしていたようである。
山上へは狭くて急な坂道ながらも車で登っていくことが出来た。途中から、城が見えてきた。模擬天守ではあるものの、
なかなか綺麗で絵になる城である。さすが司馬遼太郎をして日本で最も美しい山城と言わしめた城である。
山上の駐車場に車を停めて城郭に向かった。駐車場の隅に「首洗い井戸跡」というのがあった。
慶長の合戦時に討ち取られた寄せ手の名ある武士の血や泥で汚れた首が洗い清められ首実検に供されたとのことである。
そこから本丸松の丸の野面積みの石垣の横を城の方へ進んで行くと「力石」というのがあった。
この城の修築時に人夫作兵衛が城下から背負ってこの地まで運び上げたもので、その力量を激賞するとその場で息絶えたとのことで、
重さ350kg、長さ1m、厚さ30cmあるとのことである。そこから本丸桜の丸への石段を登り城門をくぐると模擬天守が現れた。
1933年(昭和8年)に当時国宝であった大垣城をベースに4層5階の模擬天守閣・隅櫓・高塀が木造で建てられたとので、
模擬とはいえ築70年を越える日本最古の木造再建城であり素晴らしいものである
天守閣の最上階からの展望は360度全てが開け、真下の城下町や周囲の山々が実に綺麗である。
それらの山々には山城跡や古戦場跡があるとのことで各方向に案内の写真があった。
(2005/05/07に登城して)
ギャラリー
【山下】
城は山上と山下から構成され、
山頂に旧本丸である桜の丸・松の丸を置き、この平坦地が江戸時代の本丸跡(旧二の丸)で、
江戸時代にはこの山下部が実質的な城郭機能を果たしていたようである。
㊧本丸跡の標柱、㊨土霊水
天正16年(1588)稲葉貞通が遠藤氏に代って領有したのち城郭を大改修して、この山麓の地に本丸を構え、
この門内にあたるここに井戸を掘った。爾来、夏は冷たく冬暖かい水が浪々として尽きず、
歴代城主が御殿を構えて日々の飲料水として愛用したと云われる。
山之内一豊とその妻「千代」の像
郡上八幡城の築城者・遠藤盛数の末娘が千代であるとの説がある。
【山上】
登城道から天守を眺める
山上へは狭くて急な坂道ながらも車で登っていくことが出来た。途中から、城が見えてきた。
模擬天守ではあるものの、なかなか綺麗で絵になる城である。さすが司馬遼太郎をして日本で最も美しい山城と言わしめた城である。
首洗い井戸
慶長の合戦時に討ち取られた寄せ手の名ある武士の血や泥で汚れた首が洗い清められ首実検に供されたとのこと。
力石
城の修築時に人夫作兵衛が城下から背負ってこの地まで運び上げたもので、
その力量を激賞するとその場で息絶えたとのことで、重さ350kg、長さ1m、厚さ30cmあるとのことである。
模擬城門
模擬天守
天守閣からの眺望
360度全てが開け、真下の城下町や周囲の山々が実に綺麗である。
それらの山々には山城跡や古戦場跡があるとのことで各方向にその案内の写真があった。