田んぼの中に浮かぶ多賀谷氏館跡と伝わる大福寺
常総の戦国大名・多賀谷氏の故郷
所在地
埼玉県北埼玉郡騎西町内田ケ谷1110、大福寺
ナビで内田ケ谷1110を指定すると、すんなりと近くまで行く事が出来た。赤い屋根の門が目印となり分かりやすい。
形状
平城
現状・遺構等
現状:大福寺
遺構等:説明板(大福寺の説明に随って)
満足度(10点満点)
0点
訪城日
2009/09/06
歴史等
多賀谷氏館は、平安時代末期に多賀谷氏が構えたと言われる。
多賀谷氏は、武蔵国騎西庄多賀谷郷を発祥地とし、武蔵七党の一つ野与党に属した道智氏の一族で、
源頼朝の上洛の随兵や弓始射手として活躍した。
のちに多賀谷氏は結城氏の臣となった。永享12年(1440)に起きた結城合戦(結城城参照)
は、攻防8ヶ月の末、嘉吉元(年(1441)4月結城城は陥落した。
結城氏朝・持朝父子をはじめ一族は自刃したが、このとき多賀谷氏家は氏朝の末子・七郎を抱いて結城城を脱出し、
佐竹氏に庇護されて、後の結城家再興に功績があった。
享徳3年(1454)の享徳の乱(古河公方館参照)では、多賀谷
(金子)高経は古河公方・足利成氏の命で関東管領・上杉憲忠を急襲し憲忠の首級をあげている。その功として、下妻庄内に33郷を与えられた。
高経の跡を継いだ家稙は、康正元年(1455)、飯沼氏一族の堀戸氏の関城を奪って居城とした。
更に、その後、大宝沼の南に下妻城を築き、
以後、多賀谷氏は下妻城を本拠とし、
結城氏に属しながら版図を拡げていった。
『「現地説明板」、「別冊歴史読本・激闘!戦国武将330傑(新人物往来社刊)」他参照』
現況・登城記・感想等
遺構は全く残っていないが、広大な田んぼの中に大福寺(多賀谷氏館跡)が浮かぶさまが、
往時は湿原や沼に囲まれた要害堅固な地であったことを偲ばせる。
館とは直接の関係はないようだが、大福寺境内には、鎌倉から室町時代にかけて造られた14基の板碑が現存する。
(2009/09/06訪れて)
ギャラリー
大福寺境内に残る板碑
板碑横の説明板によると、館とは直接の関係はないようだ。大福寺境内には、
鎌倉から室町時代にかけて造られた14基の板碑が現存する。これほど多くの板碑が現存するのは、
多賀谷氏がこの辺りに館を構えたことによるものだろう。中央の一番大きな板碑は、町最古、日本でも屈指で、造立は鎌倉初期の天福2年
(1234)である。左から4番目は、武士などの名を連ねた特殊な交名板碑である。(説明板より)