下総 結城城(結城市)

城址全景

関東の名族結城氏の居城、結城合戦の地

所在地

茨城県結城市結城(結城公園)

形状

平城

現状・遺構等

現状:結城公園、住宅地
遺構等:曲輪、土塁、空堀、土橋、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2007/06/24

歴史等

結城城は治承年間(1177~1180)に結城朝光が築いたとされるが確証はない。 むしろ南北朝動乱期に築城されたと見るべきであろう。
結城氏は、小山氏初代、小山政光の三男朝光が寿永2年(1183)に源頼朝から下総国結城郡を与えられたことからはじまる。その後、 結城家は宗家と陸奥白河結城家(山川氏)に分かれ、鎌倉期から建武中興期にかけて、南朝方の重鎮の地位を確保した白河結城氏に比して、 宗家結城氏は衰退していった。しかし、8代直光が北朝方につき失地回復をし、鎌倉公方足利氏を補佐し、結城氏の名を高めていった。 そして直光の嫡男基光(9代)が下野守護に任じられ、北関東に大きな勢力を築き上げ、14世紀前期にかけて結城氏宗家の最盛期を迎えた。
しかし、8代直光・9代基光による「*永享の乱」や、それに続く、 11代氏朝による「*結城合戦」の結果、結城氏は一旦滅亡した。
しかし、その後、氏朝の末子成朝により再興され、家督相続を巡る係争等もありながらも勢力回復をしていった。戦国時代には、 越後の上杉氏と後北条氏の二大勢力に挟まれて苦慮するが、宇都宮氏、佐竹氏らと伍して生き残った。
天正19年(1591)徳川家康の次男秀康を17代晴朝の養子にもらい受け、慶長6年(1601)越前福井への国替えまで関東の雄として栄えた。
結城氏の転出後、結城城は廃城となったが、元禄13年(1700)水野勝長が1万8千石で入城し、明治に至るまで水野家の居城となった。

【永享の乱】
鎌倉公方の初代は、足利尊氏の四男基氏で、以降、氏満、満兼、持氏と続く。持氏のとき、 京都では5代将軍義量が亡くなった。前の将軍義持には義量のほかに男子がなく、義持の弟4人は出家しており、将軍位が空位となった。
将軍位を狙った持氏は、義持に急接近をはかったが、相手にされず、将軍には結局義持の弟4人が「クジ引き」で決めることになり、青蓮院義円 (6代将軍義教)となった。
持氏は激怒し、将軍就任の祝賀会にも使者を送らず、年号が正長から永享に変っても新年号を用いないなど、幕府の指令は一切無視し、 将軍家との亀裂は決定的となった。そればかりか、持氏暴走を諫める関東管領上杉憲実とも対立するようになった。
永享10年(1438)憲実は身の危険を覚え、本国上野に逃れた。憲実は幕府に救援を求めると、将軍義教は大軍で鎌倉を攻めさせた。そして、 翌年2月持氏と子義久は自殺し、鎌倉府は4代90年余で壊滅した。

【結城合戦】
永享の乱の翌年、結城氏朝が持氏の遺児春王丸・安王丸・永寿丸を擁して挙兵したが、嘉吉元年(1441)4月、攻防8ヶ月の末、 結城城は陥落した。春王丸と安王丸は殺されたが、まだ8歳と幼かった永寿丸は美濃の守護土岐氏に保護された。
『「現地説明板」、「戦国大名家総覧(秋田書店刊)」参照』

現況・登城記・感想等

結城城の主郭部(館と呼ばれる)は、結城公園となっているが、そこには遺構らしきものはない。
しかし、公園手前に20m以上もの幅のある広い空堀(内堀)がはっきりと残っている。さらに、公園の南の方100mほどの所には、 館と中城を結ぶ土橋が残り、その両側の空堀も明瞭に残っている。一方の堀は東側の田川に落ち込み、もう一方は公園前の広い堀に繋がっている。
そして、結城城の往時の姿を最も偲ばせてくれるのが、公園の北側や東側の崖下から見上げる光景であろう。湿地帯(沼や深田、そして田川) で囲まれた台地上に築かれた城であることがよく分かる。
(2007/06/27登城して)

ギャラリー

結城城縄張図   ~クリックにて拡大画面に~

結城公園(主郭部)
結城城の主郭部 (館と呼ばれる)は、結城公園となっているが、そこには遺構らしきものはない。

主郭部(公園) 北西隅の聰敏神社
江戸期の結城藩水野氏初代、日向守勝成を祀っている。

主郭部(公園)北隅に建つ「結城合戦タイムカプセル埋設記念碑」
結城合戦から、540年、9回目の辛酉を迎えて1981年4月12日に慰霊祭を行った。 それを記念してタイムカプセルを埋設した記念碑。2041年辛酉4月16日に発掘するそうであるが、一体何が埋められているんだろう?

結城公園手前に残る堀
公園手前に20m以上もの幅のある広い空堀(内堀)がはっきりと残っている。

土橋
公園の南100mほどの所に残る。

土橋の両側の空堀
この空堀もはっきりと残っている。
 

公園南側に良好に残る空堀
個人宅の裏側の空堀(上写真左側から続く)であるが、実によく残っている。

城址東側
結城城の往時の姿を最も偲ばせてくれるのが、公園の北側や東側の崖下から見上げる光景であろう。 湿地帯(沼や深田、そして田川)で囲まれた台地上に築かれた城であることがよく分かる。

城址を北側から眺める

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