宇都宮氏一族の芳賀(清原)氏の居城、江戸時代には陣屋として継がれる
別名
真岡城(もうかじょう)、真岡陣屋
所在地
栃木県真岡市台町字城内
城山公園、真岡小学校:真岡市台町4184、TEL0285-82-4126
形状
平山城
現状・遺構
現状:城址公園、真岡小学校
遺構等:曲輪、土塁、堀切、説明板
満足度(10点満点)
3点
訪城日
2008/01/15
歴史等
芳賀城は、宇都宮氏一族の芳賀(清原)氏の居城である。芳賀氏は、益子氏(紀氏)とともに、「紀清両党」と呼ばれ、
宇都宮氏を支えた武士団である。
築城には、
①貞治元年(1362)高貞築城説
②天文元年(1532年)高経築城説
③天正5年(1577年)高継築城説
の3説があるが、高貞が御前城から移築し、高継が後北条氏の侵攻に備えて堅固な城に改築したとする説が有力である。
慶長2年(1597年)豊臣秀吉によって宇都宮氏が改易になるとともに廃城となった。
その後、浅野長政の三男長重が慶長6年(1601)、真岡周辺に2万石を与えられて陣屋を構えて立藩したが、同16年(1611)
に父長政に与えられた隠栖料として与えられた常陸真壁郡内に5万石を加えられ、陣屋を真壁に移した。
同年、堀親良が1万2千石で入封したが、寛永4年(1627)下野烏山へ転封となった。
そのあとに譜代の稲葉正成が2万石で入封したが、翌年(1628)に正成が没し、正勝が遺領を継いで入封したが、同年(1628)
に相模小田原に転封となり廃藩となった。
寛政9年(1797)、竹垣直温が、小児養育・荒地起返並入百姓差入・村柄立直仕法を実施する為に建てられた。
弘化5年(1848)には、山内董正が真岡・東郷両陣屋を統合する形で支配した。
嘉永4年(1851)2月、陣屋が焼失したが、原類助と二宮金次郎が中心となって再建したが、慶応4年(1868)再び焼失し廃陣となった。
『「現地説明板2箇所」、「飛山城址説明板」
、「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)より』
現況・登城記・感想等
真岡城は真岡市の中心部にある。真岡小学校のある所が城の中心部分で、城山公園が四の丸にあたるようだ。
それにしても、ここの公園化は「凄い?」の一言だ。主郭部跡の小学校の東側城塁に大きくて立派な石がふんだんに使われた「現代の高石垣」
が組まれている。実にバブリーな小学校であり公園だ。もう少し、城跡らしい公園化は出来なかったものだろうか???
それでも、土塁や堀切等の遺構は結構残っており、行屋川に沿った高台という立地が城跡だということを思い起こさせてはくれる。
(2008/01/15登城して)
ギャラリー
バブリーな石垣
主郭部跡の小学校の東側城塁に大きくて立派な石がふんだんに使われた「現代の高石垣」が組まれている。
実にバブリーな小学校であり公園だ。もう少し、城跡らしい公園化は出来なかったものだろうか???
搦手門跡?
小学校の北側(本丸跡)とその北側の櫓台の間が堀切のようになっている。
三の丸(小学校南側)と四の丸(城山公園)間の堀切
この堀切跡は、現在道路となっている。
天然の水堀・行屋川