関東御家人和賀氏の本城、和賀郡最大の城郭
別名
飛勢城(とばせじょう)
所在地
岩手県北上市二子町坊館86、飛勢城跡公園
形状
山城(標高約130m、比高差約70m)
現状・遺構
現状:飛勢城跡公園(山林)
遺構等:曲輪、空堀、堀切、石碑、説明板
満足度(10点満点)
3点
訪城日
2008/05/18
歴史等
二子城(ふたごじょう、別名:飛勢城・とばせじょう)は、和賀氏の本城で和賀郡最大の城郭である。築城年代は不明であるが、
鎌倉時代に刈田系和賀氏の弟小田島が姓を和賀と改め、二子城を本拠としていた。兄刈田系の和賀氏は、黒岩の岩崎城を本拠とし、
やはり和賀氏を称し和賀郡半の惣領地頭であった。
南北朝時代、二子和賀氏は南朝方に属し西和賀方面の一族や千北郡(秋田県)本堂氏(小田島氏支族)と力を合わせ大勢力となっていった。
一方黒岩和賀氏側は、支族鬼柳氏側より後継者を迎え鬼柳氏ら共に北朝方として活躍した。応永7年(1400)からは、二子城に移り、
和賀郡一円を支配する和賀氏の本城として確立されていった。
室町時代には和賀氏の家運に消長はあったが、それでも奥州の大名として奥州探題の御所に集まれば上席の地位であった。
和賀氏は、奥州滅亡後、三百数十年にわたり和賀郡地方を治めたが、天正18年(1591)義忠の代に、
豊臣秀吉の奥州仕置きによって二子城は廃城となった。
『現地説明板、城址碑より』
現況・登城記・感想等
二子城(ふたごじょう)の全体規模は南北約1,000m、東西約500mにも及ぶ大規模な城郭であるが、時間の関係もあり、
今回は詰城の部分だけの見学にした。
公園駐車場に「和賀氏 盛衰の跡 飛勢城」と彫られた立派な石碑が立っている。「飛勢城(とばせじょう)」
という名前は地元で呼ばれている名前だそうで、多くの歴史書には「二子城」という名で登場する。
駐車場のすぐ北側上が詰城の主郭で、八幡神社が祀られている。詰城の広さは、南北約100m、東西約70mと当時の山城(詰城)
としてはかなりの広さである。
主郭西側は切立った崖(切岸)になっており、その下には空堀が残っている。主郭東側下は帯曲輪のようになり、駐車場の所から続いている。
その下は絶壁になっており(実際には、3~4段の腰曲輪が巡っているらしい)、天然の要害地にあるのが分かる。
主郭からの東側眺望は素晴らしく、眼下には北上川と田園風景、その向こうには山並みが見える。
主郭最北端には展望台が設けられ、その南側には堀切が明瞭に残っている。
尚、
(2008/05/18登城して)
ギャラリー
石碑
公園駐車場に「和賀氏 盛衰の跡 飛勢城」と彫られた立派な石碑が立っている。
裏側には和賀氏を顕彰する文言が刻まれている。「飛勢城(とばせじょう)」という名前は地元で呼ばれている名前だそうで、多くの歴史書には
「二子城」という名で登場する。
駐車場(石碑横)から(㊧主郭を、㊨帯曲輪を)
駐車場のすぐ北側上が詰城の主郭で、その右(東)側には帯曲輪が。
主郭(㊧八幡神社、㊨神社裏)
主郭には、八幡神社が祀られている。詰城の広さは、南北約100m、東西約70mと当時の山城(詰城)
としてはかなりの広さである。神社裏へと出るとその広さを実感する。最北端部には展望台(右写真の右奥に、やや赤く写っている)がある。
主郭西側の切岸
主郭西側は切立った崖(切岸)になっており、その下には空堀が残っている。
主郭西側の空堀
展望台(主郭下帯曲輪から撮影)
主郭最北端部には展望が建てられている。展望台下には高村光太郎の詩歌碑が建つ。
展望台からの眺望
主郭(展望台)からの東側眺望は素晴らしく、眼下には北上川と田園風景、その向こうには山並みが見える。
堀切
主郭最北端にある展望台の南側には堀切が明瞭に残っている。右側が主郭。