陸奥 志波城(盛岡市)

坂上田村麻呂により古代東北地方に造営された城柵の一つ

所在地

岩手県盛岡市上鹿妻五兵衛新田48-1、志波城古代公園TEL:019-658-1710

形状

現状・遺構

現状:古代公園
構等等:堀、土塁、石碑、説明板
     【復元】外郭南門、南門、南門目隠し塀、東門、西門、南東官衙建物、築地塀、櫓、木橋

満足度(10点満点)

5点

訪城日

2008/05/18

歴史等

古代日本では、645年の大化の改新を契機として、律令制度を基に、全国を国・郡・里という行政単位で朝廷が土地と人々を直接支配し、 税を納めさせていたが、東北地方の人はそれに従わず「蝦夷(エミシ)」と呼ばれていた。
その蝦夷を統治するために設置されたのが城柵である。724年に多賀城が設置されると、 宮城県北部までが律令支配下に組込まれた。
北東北では、774年の海道蝦夷の反乱に始まる蝦夷と朝廷側の武力衝突(38年戦争)があり、781年に桓武天皇が即位すると、 朝廷軍は岩手県南部への軍事行動を開始し、胆沢地方を中心に大きな戦いとなった。
797年に征夷大将軍となった坂上田村麻呂により朝廷軍は勝利し、802年には胆沢城を造営し、 胆沢蝦夷の首長アテルイらは投降した。
その翌803年には志波城(しわじょう)を造営し、北上盆地北部まで律令支配下となった。
38年戦争が終結する811年のニサタイ・ヘイとの戦いは志波城を拠点に行われたが、同年末には度々の水害のため移転が決まり、 812年頃には徳丹城が造営された。 志波城の存続期間は約10年と短期間であった。
『古代公園・盛岡市教育委員会資料より』

現況・登城記・感想等

志波城跡は、盛岡市郊外の広大な田園地帯の真ん中にある。そして、志波城跡も実に広い。その広さは、鎮守府胆沢城を大きく上回り、 国府多賀城とほぼ同じである。 政庁にいたっては、多賀城の倍近い広さを誇る。
ほぼ正方形で、外郭は840m四方の築地塀と928m四方の土塁をともなう外大溝(堀)により二重に区画されていた。
城内中央やや南寄りに政庁があり、150m四方を築地塀で囲んでいた。
政庁周辺には役人が働く官衙建物群があったという。
今、城跡には、外郭南門が復元され偉容を誇っている。そして、その南門両側に続く築地塀・櫓も復元されている。 築地塀と60m間隔で造られた櫓が長く続いている姿は見応えがある。
政庁跡には南門(目隠し塀も)・東門・西門が復元され、政庁南東には官衙建物も復元されている。
(2008/05/18登城して)

現況・登城記・感想等

古代東北地方城柵分布(現地説明板より)    ~クリックにて拡大画面に~

城柵の広さの比較
志波城跡は実に広い。その広さは、鎮守府胆沢城を大きく上回り、 国府多賀城とほぼ同じである。 政庁にいたっては、多賀城の倍近い広さを誇る。 後に造営される徳丹城と較べるとさらにその広さが分かろうというものだ。

政庁の図
城内中央やや南寄りに政庁があり、150m四方を築地塀で囲んでいた。

外大溝(堀)
外郭は840m四方の築地塀と928m四方の土塁をともなう外大溝(堀)により二重に区画されていた。

外郭南門
城跡南入口には、外郭南門が復元され偉容を誇っている。

外郭南門と築地塀と櫓(㊧外側から、㊨内側から)
南門両側に続く築地塀・櫓も復元されている。 築地塀と60m間隔で造られた櫓が長く続いている姿は見応えがある。築地塀の内外両側にも溝(堀)があったようだ。
 

延々と続く築地塀と櫓(城内から撮影)
この延々と続く築地塀と櫓は、背後の山並みと相俟って実に壮観な景色だ。

南大路と政庁南門
外郭南門を入ると、正面はるか向こうに政庁南門が見える。非常に広い南大路を通って行く。 南門の向こうには目隠し塀も設置されている。
 

㊧政庁東門、㊨政庁西門
手前案内板はそれぞれ政庁東脇殿跡と西脇殿跡の表示。尚、正殿も、表示板だけで復元はされていない。 予算の関係もあり、いつ建てられるかは未定とのことだ。
 

南東官衙建物
南東官衙建物が一戸だけ復元されており、内部は資料館になっている。
 

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント