主郭跡にたつ「御殿跡」の表示板と「高水寺城跡」の碑
清和源氏足利一族、室町幕府管領家筆頭斯波氏発祥の地
読み方
こうすいじじょう
別名
斯波御所、郡山城
所在地
岩手県紫波郡紫波町二日町字古館、城山公園
【アクセス】
国道4号線で、紫波町役場から500mほど北上した信号を右折し、道なりに進むと城山公園第四駐車場(公園入口)に辿り着く。ここに「城山公園 清和源氏足利流斯波氏発祥の地・高水寺城跡」と書かれた非常に大きな案内板が立っている。
紫波町役場:紫波町日詰西裏23-1、TEL019-672-2111
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】城山公園
【遺構等】曲輪、土塁、空堀、水堀、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2008/05/18
歴史等
標高180mの独立丘に立地した高水寺は、中世斯波氏累代の居城であった。
斯波氏は、八幡太郎義家を遠租とする足利氏の有力な一族であるが、この地を領知するに至った経緯や築城の時期については定かでない。
一説によると、足利泰氏の子家氏がここ高水寺城に下って斯波を名乗るようになったという。しかし当時、家氏は関東御家人として幕府に出仕するとともに、足利本家の後見役を務めており、鎌倉を離れられない状況にあり、実際は、家臣を代官として派遣し、支配させたと思われる。また、斯波氏を称するのも室町期に入ってからのことであると思われる。
南北朝期、後醍醐帝は関東を牽制し、東北支配を強めるため、北畠顕家を陸奥の守に任じた。顕家は義良親王(後の後村上天皇)を奉じ、父親房とともに奥州に下向し多賀城に入った。それに対し、足利尊氏は、家氏の曾孫の高経(当時、高経は足利一門最高の家格を誇っていた)の嫡男斯波家長を奥州管領に任じた。家長はこの高水寺城を本拠として奥州における北朝方の重鎮として活躍した。しかし、その後、鎌倉の杉本城での籠城戦で、家長は17歳の若さで自刃して果てたという。
その後の、奥州斯波氏には一族から養子が入って、跡を継いだとされている。
話は、はずれるが、北朝方の支配が優勢になってくると、高経の弟で若狭守護にあった家兼が奥州探題として奥州に下り、後に大崎氏を名乗った。また家兼の次男兼頼は出羽探題に任ぜられ最上氏を名乗った。
斯波氏は、室町時代になると紫波(しわ)郡一円の領主として地歩を確立しただけでなく、一時は南岩手から雫石方面へも勢力を伸長するほどとなった。
しかし、三戸南部氏との抗争が激しくなるにつれて次第に衰えをみせ、遂にはその攻略に属して没落する運命となった。時に天正16年(1588)8月のことである。
高水寺城を占領した南部氏は、城名を郡山城と改称して城代を配したが、寛文7年(1667)に至って城代制は廃止され、城も破却された。
『「現地説明板」、「歴史と旅・戦国大名家総覧(秋田書店刊)」、「サイト:越前若狭歴史回廊・管領家斯波氏」より』
現況・登城記・感想等
今回の登城予定先のスケジュールを立てるまで、高水寺城が室町幕府管領家筆頭斯波氏発祥の地であることは知らなかった。
私は、どういうわけか「戦国大名家の発祥の地」を訪れることにウキウキする。
高水寺城址は広い駐車場が、山腹の第四駐車場から頂上部の第一駐車場まである。頂上部は城山公園として綺麗に整備され、市民の憩いの広場となっており、あちこちで弁当を広げている家族連れがいた。それだけに改変は大きいようで、あまり遺構らしい遺構は見つけられない。頂上部周辺で、空堀や土塁などを探してみたが、それらしきものはあったが、はっきりと分かるものは確認出来なかった。
ただ、頂上部の広い本丸を中心に、腰曲輪が各方向に何段もあり、しかもそれらの各曲輪が全て広く、大規模な城郭であったことは容易に想像出来る。
山腹にある第4駐車場あたりに、堀や土塁などはっきりした遺構が残っているようだ。
今回は、時間もあまりなかったので、斯波氏発祥の地の雰囲気だけを受け留めて下城することにした。
(2008/05/18登城して)
ギャラリー
広い主郭
頂上部は城山公園として綺麗に整備され、市民の憩いの広場となっており、あちこちで弁当を広げている家族連れ(避けて撮っているため写っていない)がいた。
主郭からの眺望
高水寺城は独立丘にあるので、眺望は素晴らしい。
主郭下に石垣が!?
主郭下の一部にこんな石垣があったが、勿論これは造園時のものだろう!?ツツジとのコラボレーションがなかなかのものだ。
腰曲輪
頂上部の広い本丸を中心に、腰曲輪が各方向に何段もあり、しかもそれらの各曲輪が全て広く、大規模な城郭であったことは容易に想像出来る。ただ、各腰曲輪が広すぎて、写真では塁段になっているのは撮れない。
空堀
頂上部周辺で、空堀や土塁などを探してみたが、それらしきものはあったが、はっきりと分かるものは確認出来なかったが、これは、おそらく空堀跡とみて間違いないのでは?山腹にある第4駐車場あたりに、堀や土塁などはっきりした遺構が残っているようだ。