陸前 多賀城(多賀城市)

基壇部分が復元表示された政庁正殿跡

古代律令国家の東北経営の前線拠点、征夷大将軍・坂上田村麻呂が入城

別名

多賀柵、陸奥鎮所

所在地

宮城県多賀城市市川、浮島

形状

現状・遺構等

現状:史跡公園
遺構等:政庁跡、築地跡、門跡、土塁、空堀、碑、説明板等々

満足度

★★★★☆

訪城日

2007/08/14
2008/11/26

歴史等

645年の大化改新後、全国に「国」という地方行政単位が設置されると、東北地方の太平洋側、現在の宮城県の南部から福島県全部、 それに山形県の最上川流域は「道奥国(みちのおくのくに)」とされた。道奥国とは、内国化していない地、化外の国に意であった。
道奥国は、天武朝(672~688)の頃、陸奥国となるが、その読みはやはり、「みちのおくのくに」「みちのくのくに」で「むつのくに」 と呼ばれるようになったのは、平安時代からである。
陸奥国はやがて宮城県全域から岩手県、青森県へと拡大されていくが、この「みちのく」に古代律令国家の支配拡大の役目を負って、 設置されたのが多賀城である。
多賀城は、陸奥のみでなく、出羽(日本海側)も含めた、東北経営の前線拠点であった。
宝亀11年(780)以降、蝦夷の反乱が相次ぎ、律令政府の支配は危機的状況となった。
そこへ坂上田村麻呂が現れ、延暦10年(791)征夷大使大伴弟麻呂の副使として東下し、多大な戦果を挙げた。 そして同15年陸奥国出羽按察使兼陸奥守・鎮守将軍、同16年征夷大将軍となった。4官を兼帯した田村麻呂は、律令政府の東北経営の軍事・ 行政の全権力と全責任を担って多賀城へ入った。
田村麻呂は武力制圧策だけでなく民政の安定にも力を尽くして蝦夷の平定に成功すると、延暦21年(802)、胆沢城を築いて鎮守府を北進させた。
その後、多賀城は、「前九年(1056~1063)・後三年(1083~1087)の役」の際には源頼義の拠点となった。
また、南北朝期初頭には、南朝方の北畠顕家が多賀城へ入って陸奥国府を再興すると、南北両勢力の争奪の的となった。
『日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」より』

現況・登城記・感想等

今回の東北城めぐり旅行は、毎日暑かったが、中でも今日は一番暑かった。それ故、今回の多賀城への登城で残った印象は、
①とにかく暑かった。
②とにかくだだっ広かった。
の2つである。
そうは言いながら、せっかく遠い所へ来たんだから、出来るだけ隅々まで見て廻ろうと歩き廻った。
しかし、外郭東門(北櫓・南櫓・石敷道路etc)、政庁正殿、政庁南門等々、全て詳しい説明板があったが、 あまりの暑さで見逃しも多かったように思う。まだまだ、発掘しきれていない所も多いようであるが、 現在発掘されている所だけを全て廻っても半日近くかかるだろう。
最後にもう一度、とにかく暑かった、そして広かった。
(2007/08/14登城して)

ギャラリー

多賀城の全体図(現地説明板より)


【政庁】

正殿跡
政庁の中心的な建物跡。現在は基壇部分のみ復元表示している。

政庁南門から正殿方面を
政庁の南正面に開く門跡。現在は基壇部分のみ復元表示している。


【外郭南門】

外郭南門辺りから政庁方面を   ~クリックにて拡大画面に~
現在南北大路跡(政庁南門と外郭南門を結ぶ道路)を発掘調査中。
これまでの調査で、この道路は、奈良時代には幅約12mであったが、平安時代には約23mに拡幅されたことが分かっている。

政庁への登城道


【佐貫地区】

佐貫地区は政庁の東に位置し、主屋を中心としたコの字型配置の役所建物跡等が検出されている。
佐貫地区全景
手前は建物跡復元表示、奥の建物は空堀覆屋で、ここでは地中に埋っていた空堀遺構の一部を発掘し、 直接見せている。

空堀遺構(於覆屋内)

佐貫地区発掘状況(建物跡)            現地説明板より

佐貫地区発掘状況(土塁、堀)           現地説明板より


橋と堀
 


【大畑地区】

外郭東門近くに位置する。ここには役所が配置され、8世紀後半には材木塀で仕切られていた。
大畑地区全景(大畑地区はとにかく広い)

掘立柱式の建物跡
規模は、南北約45m以上、東西約12mと多賀城内で最も大きい。

外郭東門推定復元図(現地説明板より)

北櫓跡(手前)から外郭東門(奥)方向を

外郭東門跡

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