出羽国府の属城として築城された平城
所在地
山形県鶴岡市藤島古楯跡(八幡神社)、庄内農業高校の南東
庄内農業高校:藤島古楯跡221、TEL0235-64-2152
形状
平城
現状・遺構
現状:八幡神社他
遺構等:土塁、水堀、石碑、説明板
満足度(10点満点)
3点
訪城日
2008/05/19
歴史等
藤島城の築城年代は不明であるが、和銅年間(708~715)の頃の国府の府城と言われ、出羽の守や鎮守府将軍の居城であった。
平城ではあるが藤島川を外堀とし、向楯、古郡楯、柳久瀬楯、平形楯、勝楽寺楯等の前衛基地を設け完璧なまでに堅牢な城であった。
正平6年(1351)、北畠顕信が守永親王を奉じて旗上げをした歴史上有名な城でもある。爾来、二十有余年間、
東北の南朝の拠点として守られてきた。
その後、戦国時代に、城主は土佐林氏へと替わり勢力を伸ばしたが、武藤氏に滅ぼされ、武藤義氏の弟・丸岡兵庫頭が丸岡城より入城した。
しかし兄・義氏が最上義光に討たれたため、武藤家を継いで尾浦城へ移った。
その後、上杉景勝の領となった。天正18年(1590)太閤検地の折、一揆が勃発し籠城戦となったが、
上杉景勝の宿老直江兼続も落し得なかったという。
関ヶ原合戦後は藤島城は最上義光の支城となり、家臣である新関因幡守久正が城主となったが、元和元年(1615)
最上氏改易により廃城となった。
『「現地説明板」、「サイト・東北城館魂、
藤島城」より』
現況・登城記・感想等
城址(本丸跡)には八幡神社が祀られている。神社入口には石碑と説明板が立ち、両脇には、今なお水堀がしっかりと残り、
満々と水を湛えている。
神社(本丸)周囲を巡る土塁も、西側を除きしっかりと残っている。
(2008/05/19登城して)
ギャラリー
縄張略図
平城ではあるが藤島川を外堀とし、向楯、古郡楯、柳久瀬楯、平形楯、
勝楽寺楯等の前衛基地を設け完璧なまでに堅牢な城であった。
水堀
本丸跡に建つ神社入口の両脇には、今なお水堀がしっかりと残り、満々と水を湛えている。
水堀と土塁
水堀の横の土塁も実に良好に残っている。
本丸東側虎口
水堀に架かる橋を渡り本丸へ入って行く。虎口両側の土塁がしっかり残っている。
土塁(東側虎口付近)
神社(本丸)土塁は、西側を除き良好に残り、周囲をめぐる土塁がかっこいい。
土塁(北側)
土塁は高い所では2m以上の高さがあり、北側の土塁は高さも幅もかなりのものだ。