良好に残る本丸西側の堀跡
安倍貞任の厨川柵擬定地、中世以降は工藤氏の居城
所在地
岩手県盛岡市安倍館町13、安倍館稲荷神社近辺
形状
柵、平山城
現状・遺構等
【現状】市街地
【遺構等】曲輪、空堀、石碑、標柱、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2008/05/18
歴史等
安倍館遺跡(厨川城跡)は古くから、11世紀の安倍氏の厨川柵(くりやがわのさく)跡または嫗戸柵(うばとのさく)跡として、また、中世工藤氏の居城跡として伝えられてきた。
しかし、安倍氏の柵跡については、今のところ不明のままであるが、江戸時代から明治時代までは、安倍館遺跡が厨川柵とされていたが、大正以降では安倍館、里館(さたて、天昌寺台地)を含む広範な地域を厨川柵あるいは嫗戸(おばと)柵とする見解が示されている。
文治5年(1189)、源頼朝は平泉の藤原氏を滅ぼし、御家人の工藤行光を岩手郡の地頭とした。
やがて、岩手郡の地頭は北条氏へと代るが、工藤氏は厨川の地に存続した。
室町時代の工藤氏は里館(厨川館)を拠点にしていたが、戦国時代に入り、より堅固で大きな城が必要となったため、新たに厨川城(安倍館遺跡)が築かれた。
この城は、天正20年(1592)に取り壊されるまで、不来方城(後の盛岡城) 、雫石城とともに、岩手郡の拠点的な城の一つであった。
『盛岡市遺跡の学び館刊行パンフレットより』
現況・登城記・感想等
城へは厨川城中館跡に建つ安倍館稲荷神社(或いは公民館)を目指して行くと、割合簡単に見付かり、神社横に駐車スペースもある。
盛岡市の中心部に近い所に、これだけ良好に空堀が残っているとは思わなかったので得をしたような気持になった。
尤も、これらの遺構は、安倍氏の時代の厨川柵ではなく、中世から戦国期に至る、工藤氏時代のものではあるが・・・。
厨川城は北上川に面した段丘を利用して築かれ、南から南館・中館・本丸・北館・外館・匂当館の6つの曲輪が並び、西側には帯曲輪が巡り、各館(曲輪)の周囲は深い空堀で囲まれている。
今尚、各館(曲輪)の周囲の空堀は、かなり埋ってしまった所もあるが、大方良好に残り、幅10~20メートル、深さ1~8メートルほどあり、なかなか見応えがある。
中館跡の稲荷神社裏から、本丸との間の空堀を覗くと、その空堀が北上川へと落ちていっているのがよく見え、往時の姿を偲ぶことができる。
また、中館には稲荷神社の横にも神社が祀られていた。すると、何とその鳥居の額が「貞任宗任神社」となっている。意外?なものを発見して何となく嬉しかった。
(2008/05/18登城して)
ギャラリー
厨川柵の範囲(現地説明板より)
江戸時代から明治時代までは、安倍館遺跡が厨川柵とされていたが、大正以降では安倍館、里館(さたて、天昌寺台地)を含む広範な地域を厨川柵あるいは嫗戸(おばと)柵とする見解が示されている。
厨川城概略図(盛岡市遺跡の学び館刊行パンフレットより) ~クリックにて拡大画面に~
厨川城は北上川に面した段丘を利用して築かれ、南から南館・中館・本丸・北館・外館・匂当館の6つの曲輪が並び、西側には帯曲輪が巡り、各館(曲輪)の周囲は深い空堀で囲まれている。
南館と中館の間の空堀(写真左は中館跡、右は南館跡)
各館(曲輪)の周囲の空堀は、かなり埋ってしまった所もあるが、大方良好に残り、幅10~20メートル、深さ1~8メートルほどあり、なかなか見応えがある。
本丸と中館の間の空堀(写真左土塁上は本丸跡、堀の右側は中館跡)
厨川八幡宮
本丸には厨川八幡宮が祀られている。また、その右奥には貞任宗任神社も祀られている。
厨川柵古跡石碑
南館跡前の道路脇に厨川柵のこんな小さな石柱がポツンと立っていた。「皇紀二千五百五十二年」と刻まれていたので、明治25年(1892)に建てられたものでしょうか?