天昌寺前にたつ「厨川柵擬定地」の標柱と説明板
安倍貞任の厨川柵擬定地、室町期工藤氏が一時本拠とした
別名
厨川館
所在地
岩手県盛岡市天昌寺町(天昌寺一帯)
天昌寺:天昌寺町6-16、電話019-646-2266
形状
館、柵
現状・遺構等
現状:市街地
遺構等:石碑、説明板
満足度
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訪城日
2008/05/18
歴史等
陸奥の豪族安倍氏は、平安時代後期になると、衣川柵を中心に城柵を設け、最北端の拠点の厨川柵には宗嫡の貞任を配した。
天喜4年(1056)、前九年の役が起こったが、安倍氏の勢力が強く、国司軍(源頼義)は平定することができなかったが、
出羽の豪族清原氏の来援によって、安倍氏軍は、次第に退き、康平5年(1062)厨川柵に全勢力を挙げて、最後の決戦を行ったが、
敗れて滅亡した。
文治5年(1189)源頼朝が奥州藤原討伐の軍を起し、自ら7軍を率いて、平泉を落とし、厨川柵まで進駐し、一週間ほど在したという。
文治5年(1189)、源頼朝は平泉の藤原氏を滅ぼし、御家人の工藤行光を岩手郡の地頭とした。工藤氏は、この時の戦功によって、
岩手郡を給した。
やがて、岩手郡の地頭は北条氏へと代るが、工藤氏は厨川の地に存続した。
室町時代、工藤氏は里館(厨川館)を拠点にしていたが、戦国時代に入り、より堅固で大きな城が必要となったため、新たに厨川城を築き移った。
江戸時代から明治時代までは、安倍館遺跡が厨川柵とされていたが、
大正以降では安倍館、里館(さたて、
天昌寺台地)を含む広範な地域を厨川柵あるいは嫗戸(おばと)柵とする見解が示されている。
『「天昌寺説明板」、「サイト:いわての城・
館、安倍氏の城柵」より』
現況・登城記・感想等
現在天昌寺の建つ一帯の台地が里館(さたて)跡である。
遺構は全く残っておらず、天昌寺の国道46号線沿いに「厨川柵擬定地」の標柱と厨川柵の説明板が設置されているだけである。
(2008/05/18訪れて)
ギャラリー
厨川柵の範囲は?(安倍館跡説明板より)
~クリックにて拡大画面に~
江戸時代から明治時代までは、安倍館遺跡が厨川柵とされていたが、
大正以降では安倍館、やこの里館を含む広範な地域を厨川柵あるいは嫗戸(おばと)
柵とする見解が示されている。