主郭最北端部の堀切
関東御家人和賀氏の本城、和賀郡最大の城郭
別名
飛勢城(とばせじょう)
所在地
岩手県北上市二子町坊館86、飛勢城跡公園
形状
山城(標高約130m、比高差約70m)
現状・遺構
【現状】飛勢城跡公園(山林)ほか
【遺構等】曲輪、空堀、堀切、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2008/05/18
歴史等
二子城(ふたごじょう、別名:飛勢城・とばせじょう)は、和賀氏の本城で和賀郡最大の城郭である。築城年代は不明であるが、鎌倉時代に刈田系和賀氏の弟小田島が姓を和賀と改め、二子城を本拠としていた。兄刈田系の和賀氏は、黒岩の岩崎城を本拠とし、やはり和賀氏を称し和賀郡半の惣領地頭であった。
南北朝時代、二子和賀氏は南朝方に属し西和賀方面の一族や千北郡(秋田県)本堂氏(小田島氏支族)と力を合わせ大勢力となっていった。
一方黒岩和賀氏側は、支族鬼柳氏側より後継者を迎え鬼柳氏ら共に北朝方として活躍した。応永7年(1400)からは、二子城に移り、和賀郡一円を支配する和賀氏の本城として確立されていった。
室町時代には和賀氏の家運に消長はあったが、それでも奥州の大名として奥州探題の御所に集まれば上席の地位であった。
和賀氏は、奥州滅亡後、三百数十年にわたり和賀郡地方を治めたが、天正18年(1591)義忠の代に、豊臣秀吉の奥州仕置きによって二子城は廃城となった。
『現地説明板、城址碑より』
現況・登城記・感想等
二子城(ふたごじょう)は南北約1,000m、東西約500mにも及ぶ大規模な城郭ですが、時間の関係もあり、 今回は詰城の部分だけの見学にしました。 詰城も、南北約100m、東西約70mと当時の山城(詰城) としてはかなりの広さです。
二子城の詰城跡(飛勢城跡公園)の駐車場には「和賀氏 盛衰の跡 飛勢城」と彫られた立派な石碑が建っていますが、「飛勢城(とばせじょう)」 という名前は地元で呼ばれている名前だそうで、多くの歴史書には「二子城」という名で登場します。
駐車場のすぐ北側上が詰城の主郭で、八幡神社が祀られています。
主郭の西側は切立った崖(切岸)になっており、その下には空堀が設けられています。
一方、東側下は帯曲輪のようになり、駐車場の所から続いています。その下は絶壁になっており(実際には、3~4段の腰曲輪が巡っているらしいが)、天然の要害地にあるのが分かります。
主郭最北端には展望台が建てられ、その手前(南側)には堀切が明瞭に残っています。
展望台の場所には往時は物見台があったのでしょう。展望台からは、眼下に北上川と田園風景、その向こうには山並みが見えます。
(2008/05/18登城して)
ギャラリー
石碑
二子城の詰城跡(飛勢城跡公園)の駐車場には「和賀氏 盛衰の跡 飛勢城」と彫られた立派な石碑が建ち、裏側には和賀氏を顕彰する文言が刻まれています。「飛勢城(とばせじょう)」という名前は地元で呼ばれている名前だそうで、多くの歴史書には「二子城」という名で登場します。
詰城主郭を(公園駐車場にて撮影)
駐車場のすぐ北側上が詰城の主郭です。
主郭東側の帯曲輪
主郭の東側下は帯曲輪のようになり、駐車場の所から続いています。
主郭に鎮座する八幡神社
主郭には、八幡神社が鎮座しています。
八幡神社の裏
詰城の広さは、南北約100m、東西約70mと当時の山城(詰城)としてはかなりの広さで、神社裏へと出るとその広さを実感します。
主郭西側の切岸
主郭西側は切立った崖(切岸)になっており、その下には空堀が残っています。
詰城最北端を断ち切る堀切
主郭最北端には展望台が建てられ、その手前(南側)には堀切が明瞭に残っています。
展望台
主郭最北端部には展望が建てられていますが、往時は物見台があったのでしょう。展望台下には高村光太郎の詩歌碑が建っています。