陸中 水沢城(奥州市水沢区)

三之曲輪跡に建つ市役所と往時を偲ばせる姥杉

留守氏、約240年間の居城

別名

水沢要害

所在地

岩手県奥州市水沢区大手町1-1奥州市役所他
奥州市役所:大手町1-1、TEL0197-24-2111

形状

平城

現状・遺構等

現状:奥州市役所、市街地(宅地)等
遺構等:模擬冠木門、二の曲輪姥杉、説明板

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

2008/05/18

歴史等

水沢城(みずさわじょう)は、いつ、誰が、最初に築いたか明らかではないが、古くから城館が存在し、戦備に利用されたと思われる。
天正19年(1591)、豊臣秀吉が天正年間の一揆をくだした後、家臣上杉景勝が修復し、伊達政宗に渡したと云われる。その後、伊達の臣、 白石宗美、柴田外記、石母田宗頼らが居城した。
その後、留守氏が、岩切城、 利府城、黄海城、清水城、一関城、金ヶ崎城を経て、寛永6年(1629)伊達宗利(留守氏)の時、水沢城に移されて城主となった。
以後、1万石から1万6千石となり、明治維新まで約240年間居城した。
留守氏は、源頼朝によって「陸奥国留守職」に任ぜられた伊沢左近将監家景をもって祖とする。平泉藤原氏滅亡後、留守職の家景は、陸奥の勧農、 その他の民生一般をつかさどった。2代家元以降は、代々「留守氏」を号し、岩切城を居城とした。 南北朝期には、最初は南朝方に属したが、のちに北朝方に転向した。
貞和2年(1346)足利尊氏は奥州管領として吉良貞家、畠山国氏を任命するが、足利家内部で兄尊氏と弟直義の対立が激化すると、 両者も2派に分かれて争うことになった。留守氏は畠山氏・宮城氏とともに尊氏側に加担したが、正平6年(1351)ここ「岩切城の合戦」 に敗れ、岩切城は廃城、 留守氏は衰運の極に達した。
その後、留守氏は伊達氏と親族関係を結んだが、それ以来、伊達氏の内政干渉が厳しくなった。
14代郡宗以降は、伊達氏より当主を迎え、戦国時代末期には留守氏は名実ともに伊達家の傀儡と化し、19代宗利以降は伊達氏を称し、 伊達62万石の体制の中に組み入れられた。
『「現地説明板」、「歴史と旅・戦国大名家総覧(秋田書店刊)」参照』

現況・登城記・感想等

水沢城跡には、遺構は何も残っていないが、奥州市役所正面に、三之曲輪土塁に植えられていたという姥杉の大木が、 唯一往時の面影を偲ばせてくれる。
ほかに模擬冠木門が、姥杉裏に設置されている。
また、周辺には今も多くの武家屋敷が残っている。
(2008/05/18訪れて)

ギャラリー

水沢城略図(現地説明板より)
城は、正確には水沢要害と呼ばれ、一之曲輪(本丸)、二之曲輪、三之曲輪、南曲輪などに分かれていた。 現市役所、県合同庁舎敷地が三之曲輪に含まれ、市役所正面玄関北側付近に大手門、太鼓櫓、子弟の教育の場であった立生館が置かれた。

三之曲輪「姥杉」
各曲輪を囲む土塁には杉や松が植えられていたが、現在は、この姥杉一本だけが残っている。 その高々と聳える偉容が往時を偲ばせてくれる。

冠木門

武家屋敷(㊧内田家、㊨八幡家)
周辺には今も多くの武家屋敷が残っている。
 

後藤新平旧宅
後藤新平旧宅も残り、公開されている。水沢は、どういうわけか高野長英、 斉藤実など多くの偉人を輩出している。後藤新平もそんな一人である。今年は、生誕150年にあたるらしい。
 

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