陸奥 岩崎城(北上市)

関東御家人和賀氏の城、秀吉による奥州仕置後に一揆を起こし籠った城

所在地

岩手県北上市和賀町岩崎18-90、岩崎公民館付近
岩崎公民館:和賀町岩崎18-90、TEL0197-73-6076

形状

平山城

現状・遺構

現状:岩崎公民館、公園
遺構等:模擬天守、曲輪、土塁、枡形虎口、空堀、石碑、説明板

満足度(10点満点)

4点

訪城日

2008/05/18

歴史等

岩崎城が築かれた時期は、正確には分からないが、南北朝時代には既にあったと思われる。
天正18年(1590)、和賀氏は豊臣秀吉による奥州仕置で城を没収され、天正20年(1592)南部氏によって破却された。
しかし、慶長5年(1600)、和賀忠親は旧領地を奪い返すために、一揆(岩崎一揆)を起こしたが失敗し、この岩崎城跡に籠もり、 南部氏と激戦になったが、翌19年(1591)4月、城は遂に陥落した。
その後、岩崎城は南部氏によって整備され、南部氏家臣柏山伊賀守朝助が入城したが、その後いつまで続いたかははっきりしない。
『現地説明板より』

現況・登城記・感想等

岩崎城本丸跡には、天守閣を模した岩崎公民館が建っており、車で登って行くことが出来る。
途中、三の丸への枡形虎口があり、その土塁がだだっ広い三の丸周囲を巡っている。土塁外側には空堀も巡っていたようで、 虎口土塁外側に空堀跡らしきものが確認される。
三の丸と本丸間は、近世城郭並みの深くて幅広い空堀によって断たれているが、この空堀はなかなか見応えがある。多分、 和賀氏時代のものでなく、岩崎一揆後に南部氏が整備した時に掘られたものであろう。
空堀の本丸側には土塁も残っていたが、あまりの藪で入って行くことは断念した。
(2008/05/18登城して)

ギャラリー

三の丸への虎口
天守閣を模した岩崎公民館が建つ本丸跡へと車で登って行く途中にこの三の丸虎口へと出る。

三の丸枡形
三の丸虎口は枡形になっており、案内板の他に門跡の石碑(写真左)が立っている。

三の丸の土塁(虎口北側部分)
虎口から続く土塁は、だだっ広い三の丸周囲を巡っている。高さは2m強くらいかな。

三の丸土塁(上写真)外側の空堀
三の丸は、土塁外側に空堀も巡っていたようだ。

三の丸
三の丸跡はとにかくだだっ広い野原になっており、周囲を土塁が囲んでいるのがよく分かる。

本丸空堀に架かる橋
三の丸と本丸間は、近世城郭並みの深くて幅広い空堀によって断たれている。空堀には橋が架かり、 車で渡れるが、今日は日曜日で公民館は休館ということで、この橋の手前に金網の柵でシャットアウト。止むを得ず、 折角ほぼ治ったと思われる腰痛再発に気を付けながら、横の隙間から入って行った。

本丸空堀(橋の上から撮影)
この近世城郭並みの空堀はなかなか見応えがある。多分、和賀氏時代のものでなく、 岩崎一揆後に南部氏が整備した時に掘られたものであろう。

本丸土塁
空堀の本丸側には土塁も残っていたが、あまりの藪で入って行くことは断念した。 この土塁も本丸周囲を巡っていたようで、写真左側へと折れ曲がっている。

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