アルカサル(トレド,Toledo) Alcazar

栄華を極めた帝国の都トレドの頂きにそびえる難攻不落の城塞

別名

「難攻不落の城塞」

所在地

カスティーリャ・ラ・マンチャ州トレド県トレド

訪城日

2009/03/26

歴史等

【ローマ帝国の時代】
トレドが歴史に登場するのは紀元前190年頃である。イベリア半島がローマに征服され、トレトゥムと呼ばれたのがその始まりという。
繁栄を極めたローマ帝国であったが、約600年にわたる支配も領土が広くなりすぎたため、次第に隅々まで統治が行き届かなくなり、 各地で反乱が続くようになった。特に、395年、東西ローマの分裂後、ゲルマン民族の侵入によってその力は急速に衰退していった (西ローマ帝国の滅亡476年)。
イベリア半島にも409年頃から、スエヴィ族、アラン族、バンダル族のゲルマン三民族が侵入してくる。 彼らは各地に略奪を繰り返しながらそれぞれ北部・西部・南部に勢力を拡げ、西ローマ帝国の支配は有名無実となっていく。

【西ゴート王国の時代】
この混乱状態を、ローマの同盟軍として平定にやってきたのが西ゴート族である。しかし、 彼らも後にローマとの同盟を破棄して単独で半島の支配を始め、6世紀の半ばにはトレドを西ゴート王国の都に定める。
しかし、彼らの統治も長く続かず8世紀の初めにはイスラム教徒によってその支配権を奪われてしまう。

【イスラムの時代
7世紀前半にアラビアで興った新宗教イスラム教は、わずか100年ほどの間に強大な勢力となり、北アフリカからジブラルタルを渡る (711年)と破竹の勢いであっという間に北の一部を除くイベリア半島の大部分をその手中に収めてしまう。
彼らは、712年にトレドを征服すると、これをトライトラと呼んだ。

【レコンキスタの時代から統一まで】
722年に半島の北部から始まったキリスト教徒たちの国土再征服(レコンキスタ)が、 中央高地に波及したのは11世紀になってからのことである。
1085年5月25日、カスティーリャ王国のアルフォンソ6世は、長い包囲戦の後にトレドを再征服し、古くはローマ時代から城砦(後に、 西ゴート族もイスラム教徒も、それぞれ軍事的な目的で使っていたらしい)があったというトレドの町を見下ろす小高い丘の上に王城 (アルカサル・El Alcazal)を設けた。
王城は、その後、アルフォンソ7世・8世・10世・フェルナンド3世・ファン2世、そしてカトリック両王たちが、次々と増改築していった。
16世紀になると、トレドは統一されたスペイン帝国の都として繁栄する。
1492年にイベリア半島最後のイスラム領土であったグラナドを落とし、レコンキスタを完成させたカトリック女王イサベルが亡くなった後、 神聖ローマ皇帝の息子フェリーペに嫁いでいた次女のファナがカスティーリャの王位を継いだ。しかし、 彼女は夫の死で発狂してしまい16歳の王子カルロス(カルロス1世)がフランドルから呼び寄せられる。
このハプスブルグ家の血をひく王を戴くことによって、スペインの領土は一気に拡張されることとなった。もともとの領土であったイベリア半島、 発見されたばかりの新大陸に加えて、ブルゴーニュ、ナポリ、シシリア、サルデーニア、フランドル、ドイツ、 オーストリアなどがスペイン領となり、その広大な帝国の都に定められたのがトレドであった。
カルロス1世は、トレドのアルカサルを自らの宮殿とするため、1545年から大々的な改築を始め、約1世紀にも及んだという。
当時、世界最強の帝国の都として栄えたトレドであったが、皇帝が退位し、子のフェリーペ2世が即位すると、 1561年に都をマドリードに移した。都がマドリードに移ってからも、アルカサルの改築は進められたが、王宮の性格は失われ、 1642年から建物は監獄として使われるようになり、1710年には王位継承戦争の戦火で大部分を焼失する。
18世紀の末、カルロス3世の時代には救貧施設となり、1883年からは陸軍士官学校に姿を変えた。この間に、さらに2度の火災にみまわれ、 その度に大掛かりな回復工事が行なわれた。

【スペイン内戦から現代】
スペイン内戦の初期には、モスカルド大佐率いるフランコ軍が72日間にわたって籠城した。
この時、共和国軍の砲撃を受けてほぼ全壊した後に、復元され、現在は軍事博物館になっている。

『「TOREDOその歴史と芸術・河田美恵子著(株式会社セキセイ刊)」、「図説・スペインの歴史・川成洋著(河出書房新社刊)」、 「地球の歩き方・スペイン(ダイヤモンド社刊)」より』

現況・登城記・感想等

トレドにまつわるエピソードに『もし一日しかスペインにいられないなら、迷わずトレドに行くべきである。』というのがあるそうだが、 納得である。
タホ川の峡谷を隔てて眺めるトレドの全景は圧巻である。生まれてこのかた見たどの景色よりも素晴らしいかもしれない。
また、1561年に首都がマドリードに移るまで、政治・経済の拠点として繁栄したトレドは、『16世紀で歩みを止めた町』 とも言われるように、迷路のような細い道の両側に古い建物がぎっしりと建て並ぶさまは、まさに中世のたたずまいを味わえる。
さらにはスペイン12司教区の首位とされるカテドラルをはじめとして、サント・トメ教会など名だたる教会群もよく残り、 まさにトレドはスペインの全歴史のルツボのような町である。一日中、散策しても飽きないだろう。
今回はパック旅行のため、アルカサルへは入城できずタホ川の向こうから遠く眺めるだけであったし、 トレドの見所もほんの一部しか廻れなかったと思うが、それでも大変な感動だった。
(2009/03/26訪れて)

ギャラリー

トレド旧市街図    ~クリックにて拡大画面に~

タホ川の向こうから見たトレド旧市街遠景 ~クリックにて拡大画面に~
トレドは北側を除く3方をタホ川に護られた丘の上にある。「難攻不落の城塞」というのがトレドの別名である。 トレドを占領するまで侵略軍の総帥はスペインを征服したと豪語できなかった。
それにしても見事な景観である。一体どれだけ写真を撮ったことやら。


アルカサル(王城)
アルカサルはトレドを見下ろす最も高い丘の上に威風堂々と建っている。

ズームアップして

サン・マルティン橋
㊧サン・マルチン橋をタホ川の外側から、㊨サン・マルティン橋の上にて
13世紀初頭にゴシック様式で建設された。それから一世紀半後の1368年、カスティーリャの王位をめぐる、残酷王ペドロ1世と、 その庶出の弟エンリケの戦いが起こり、その時中央アーチの部分が破壊されたが、後に大司教テノリオの命によって修復され、今日に至っている。

 

サン・マルティン橋を旧市街側から

城壁
トレド旧市街を囲んでいた城壁はタホ川沿いに今尚よく残っている。
 

旧市街を散策
『16世紀で歩みを止めた町』とも言われるトレドの旧市街は、 迷路のような細い道の両側に古い建物がぎっしりと建て並び、まさに中世のたたずまいを味わえる
 

㊧カテドラル(大聖堂)、㊨カテドラル(大聖堂)の獅子の門
㊧スペインを宗教的に区分すると12の大司教区に分かれるが、トレドはこの首位である。 スペインカトリックの本山ともいうべきカテドラル(大聖堂)は、1226年、聖王フェルナンド3世の時代に建設が始められ、 それから250年以上たった1493年に完成したらしい。
㊨フランドルからやってきてトレドに定住した後期ゴシックの巨匠アネキン・デ・ブルセーラスを中心に、兄弟で彫刻家のエガス・クエマン、 その子エンリケとアントンのエガス兄弟らが11年の歳月をかけて造った。アーチの部分には無数の天使や使徒が彫られ、タンパンの上部には、 この門のテーマである「被昇天の聖母」の像が飾られている。

 

㊧サン・ファン・デ・ロス・レイエス教会、㊨サント・トメ教会
㊧1476年のトロイの戦いでポルトガルに勝利したことを記念してカトリック両王が建立。 ゴシックとムデハル様式をミックスしたイサベル様式である。
㊨14世紀のモサラベ様式のこの教会には、エル・グレコの最高傑作と言われる「オルガス伯爵の埋葬」が展示されている。

 

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