城址と推定される一つ、石浜神社
亥鼻城(千葉城)から逃れて武蔵千葉氏の居城に!?
所在地
東京都荒川区南千住3丁目(石浜神社)
形状
平城
現状・遺構等
現状:石浜神社、東京ガス敷地
遺構等:説明板
満足度
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訪城日
2009/03/05
歴史等
石浜は下総と武蔵の国境であり、平安時代の頃から湊であり、関東を南北に貫く利根川水運のメッカであった。
この地を領していたのは江戸氏であり、この要衝の地に江戸氏一族の石浜氏が居館を営んでいたという。
室町時代には、鎌倉公方足利基氏が文和元年(1352)に石浜城に入城して、新田義興の軍勢との合戦に赴いたともいう。
さらに時は下り、下総国の守護・千葉氏は、古河公方足利成氏と関東管領上杉家が争った「享徳の大乱」に巻き込まれ、
一族で骨肉相食む争いを繰り広げた。康生2年(1456)成氏方の軍勢に亥鼻城
(千葉城)を攻め落された千葉実胤・自胤兄弟は、扇谷上杉家の太田道灌の助けを受け、市川城
(国府台城)を逃れて、兄の実胤は石浜城、弟の自胤は赤塚城へ入城し、武蔵千葉氏となった。
道灌亡きあとは後北条氏に従い、その後100年あまり続いたが豊臣秀吉によって後北条氏が滅亡すると同時に石浜城も廃城となった。
石浜城の位置については諸説あるが、石浜神社付近は有力な推定地の一つとされる。
『「現地説明板」、「赤塚城址説明板」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)他参照』
現況・登城記・感想等
石浜城は跡形もなく、城址推定地の一つである石浜神社脇に説明板が立つのみである。
もう一つの推定地は待乳山聖天ということだが、勿論こちらにも何も無い。
また、今戸神社の辺りも城域であったようだ。
(2009/03/05訪れて)
ギャラリー
石浜神社脇に立つ説明板
石浜城の有力推定地とされる石浜神社であるが、遺構は全くないが、
神社脇の道路沿いに簡単な説明板が設置されている。
もう一つの有力推定地・待乳山聖天
住所:台東区浅草7丁目4-1
この辺りでは珍しく比高10mほどの丘になっているが、こちらは遺構は全くないどころか、
説明板のたぐいさえない。
今戸神社
石浜神社と待乳山聖天の間にあるが、神社説明板によると「嘉吉元年(1441)
千葉介胤直が自分の城内に勧請した」とあるので、この辺りも城域内であったのだろう。
沖田総司終焉の地
今戸は沖田総司終焉の地であるとともに、「招き猫発祥の地」「今戸焼発祥の地」でもあり、
神社に石碑が立っている。沖田総司は当地に居住していた御典医松本良順に治療してもらっていたそうだ。
【南千住付近】
小塚原回向院
㊧南千住は江戸時代に鈴ケ森とともに、小塚原刑場のあったところで、
刑場傍に刑死者を供養のために開かれた回向院がある。㊨墓地には吉田松陰(写真左奥)、頼三樹三郎(松蔭の斜め前)、橋本左内(右奥屋根)、
梅田雲浜などとともに、鼠小僧や高橋お傳などの墓まである。
㊧吉田松陰の墓、㊥橋本左内の廟、㊨鼠小僧他の墓
㊥左内は家老であった為か、小さいながらも屋根が付き廟になっている。㊨左から「鼠小僧」、「直侍・直治郎」
、「高橋お傳」の墓で、右端のげん骨腕は「腕の喜三郎の墓」となっていたがスリだろうか?
ウナギ・尾花
南千住には、東京でも鰻屋さんの代表的な店の一つ「尾花」がある。
㊧鯉のあらい、㊨鰻重
尾花の鰻重は注文してから40分はかかる。そこで、その前に「ウザク」や「ウマキ」等を肴にチョット一杯!
㊧今回は、「鯉のあらい」等で一杯やり鰻重の出てくるのを待った。㊨鰻重は、並・上・特上とあるが、今回は上にしたが、
以前より少しウナギが薄くなったような気がする。美味しいことは美味しいが、浜松の清水家や三島の桜家、
岡崎の鴨川等々よりちょっと落ちるかな?