備中 鶴首城(高梁市)

成羽陣屋(山崎氏御殿)石垣と背後の鶴首山(鶴首城址)

備中の戦国大名三村氏の山城

所在地

岡山県高梁市成羽町下原(鶴首山)
【行き方】
成羽美術館・成羽小学校背後の山。成羽小学校の裏の道を行くと案内があり、そこから登山道があり主郭へ続く。 役場或いは成羽町美術館等の駐車場を利用。

形状

山城(標高392.37m)

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:曲輪、石垣、堀切、溜池、説明板

歴史等

平安時代末期(源平時代)の文治5年(1189)に奥州平定に功績のあった河村四郎秀清が築城したと伝えられている。
永正年間(1504~1521)になって、三村宗親及びその子家親がこの地を与えられて信濃狭江から来て居城し、天文2年(1533) 家親が城郭を整備拡張した。家親は鶴首城を拠点にして勢力を拡大した。
永禄4年(1561)、家親・元親父子は、備中猿掛城の毛利元清(毛利元就の六男)とともに、毛利氏に叛くとの噂があった備中松山城の庄氏を急襲し、 庄氏を滅ぼした。家親はその功によって備中守を称して、本拠を鶴首城から備中松山城に移した。 そして鶴首城は、弟の三村親成、親宣父子に譲った。
永禄9年(1566)宇喜多直家によって三村家親が暗殺されると、備中兵乱が激化した。
そして、長年にわたり三村氏と同盟関係にあった毛利氏が宇喜多氏と同盟を結び三村氏は毛利、宇喜多に挟まれる形となると、 家親の跡を継いだ元親は毛利氏と袂を分かって織田氏と交わる様子がみえたので、親成、親宣父子は毛利氏にこれを報じたことから喧嘩となった。 そして、親成、親宣父子が鞆(現福山市)に奔ったので、三村親重が鶴首城の守将となった。
そこへ、天正3年(1575)毛利の大軍が攻め込み、鶴首城は落城し、あとは毛利方で整備するに至ったが、 この時に廃城になったという説もあるようだ。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの功績により成羽の地で7千石を得た岡家俊が入城した。しかし、慶長19年(1614) 大坂の陣で家俊の長男岡平内が大坂方に味方したため、大坂城落城後、 家俊は切腹させられた。
元和3年(1617)、因幡若狭城より山崎家治が成羽に入部したが、鶴首山麓に御殿 (成羽陣屋)を築いたため、鶴首城は廃城となった。
『歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)他参照』

現況・登城記・感想等

最近、地元住民の方の努力により、登城道等々が整備されたと聞く。
また、曲輪跡もかなり残り、本丸に相当する一の壇には石垣も残っていると聞いたので、成羽陣屋跡訪問後、 是非登城したかった。
しかし、成羽美術館のところから城址である鶴首山を見上げるかぎり、登城には20分以上は掛かりそうだし、見て廻るのには、 最低1時間は掛かりそうだ。
どうしようか迷ったが、この後の旅の行程を考えると、どうにも時間が足りなく断念した。いつか、是非登城したいものだが・・・。
(2007/11/16)

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