甲斐 穴山氏館(韮崎市)

穴山氏居館跡を示す館名の板と簡単な説明板

武田氏重臣穴山氏初代、2代の居館

所在地

山梨県韮崎市穴山町次第窪
【行き方】
JR穴山駅の駐車場に簡単な案内図がある。
県道17号線を北上し中央本線のガードをくぐり更に進み、重久公民館の手前を右折する。道なりに進み、中央本線下の狭いガードをくぐり、 更に道なりに行き、雑木林に突き当たった所に説明板がある。
(穴山駅前の案内図)

形状

現状・遺構等

現状:雑木林
遺構等:城址名板、説明板

満足度

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訪城日

2009/06/07

歴史等

穴山氏初代、2代が、ここに館を構え居住し、峡北地方(山梨県北部)一帯に版図を拡大した。
3代目になり、奥州へ移っていった南部氏の旧領の河内地方(現在の南巨摩、西八代郡一帯)に移った。
戦国時代の穴山氏の当主は穴山梅雪(信君)である。信君の母は武田信玄の姉で、自身は信玄の娘を夫人とした武田氏の一門であり、 親族衆として武田家臣団の中でも重きをなし、永禄11年(1568)信玄が今川氏を滅亡させると、江尻城を築いて梅雪に守らせた。
しかし、武田勝頼の代になり長篠・設楽ヶ原合戦で敗れ、武田氏劣勢が進むと徳川家康に内応し、江尻城を引き渡す。
武田氏滅亡後、家康と共に、京都で信長の接待を受けた後、大阪・堺を回遊している最中、本能寺の変が起こり、信長が横死すると、 梅雪は直ちに帰国を目指したが、山城国・宇治で土民によって殺害された。
『穴山駅前説明板他参照』

現況・登城記・感想等

穴山氏居館跡は雑木林と化して遺構は確認出来なかった。多分、発掘調査などは全くされてないのだろう。
城址板と簡単な説明板だけが、ここに館があったことを示しているだけである。
(2009/06/07訪れて)

ギャラリー

JR穴山駅のホームにたつ「穴山氏発祥の地」の案内板
JR穴山駅は無人駅なので、ホームまで降りていくことが出来る。かなり大きく、 駅名を示す案内板よりも大きい。

居館跡は雑木林
説明板の横から、雑木林の中に入っていくことができる。林内に道はあるものの、 遺構らしきものは確認できなかった。多分、発掘調査などは全くされていないのだろう。

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