甲斐 白山城(韮崎市)

三の丸と本丸帯曲輪間の堀切と土橋(三の丸から撮影)

甲斐武田氏始祖信義が築いた詰の城との伝承が

別名

鍋山砦、要害城

所在地

山梨県韮崎市神山町鍋山字城山ほか
【行き方】
ややこしくて説明できません。鍋山地区で地元の方に聞いて下さい。スミマセン。尚、武田神社の方からも登れるらしい。
でも、参考までに(汗)。
【登城口へ】
白山城の山は、すぐに特定でき山麓まで行ったものの、登城口が分からず、地元の方に尋ねてやっと分かった。ただ、『熊に気を付けて下さい。』の一言も・・・(ドキッ)!
登城口には、獣除けのためか、がっしりした門扉で閉じられている。無気味だ~!
(㊧白山城の全景と道奥の方に登城口の門扉、㊨登城口の門扉
 


門扉を開けて入ると、急な石段の下に説明板が設置されている。これで、やっと登城道に間違いないことを確認。せめて、 この説明板を門扉の前に設置しておいてくれたら分かりやすいのにネエ?!
急な石段(左へ曲がる緩やかな坂道でもOK)を登ると、神社へ出る。
(㊧登城口に立つ説明板と急な石段、㊨石段を登ると神社が
 

あとは、神社横(写真左側)から遊歩道をひたすら登ること10分ほどで本丸へ到着する。
(2009/06/07登城して)

形状

山城(標高560m、比高約120m)

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、虎口、横堀、竪堀、堀切、土橋、説明板、縄張略図板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2009/06/07

歴史等

新羅三郎義光の曾孫・源清光の次男・信義は、元服して武田太郎信義と名乗り、白山(はくさん)城を築き、 武田庄を領土として勢力を伸ばした。
やがて、父清光の跡を継いで谷戸城主となった長兄・逸見光長をしのぎ、甲斐源氏の惣領的な地位にたった。
治承4年(1180)、源頼朝の挙兵に合わせ、信義も出兵し、遠江・駿河の大軍を破り、さらには富士川の戦いで平家の大軍を破った。
戦勝の後、頼朝は論功行賞として、信義を駿河守護に、叔父の安田義定を遠江守に任命した。信義率いる甲斐騎馬軍団は、その後も、 義経の西上作戦に参加し、木曽義仲追討、一の谷、屋島、壇ノ浦の合戦で大きな軍功をたてた。
平家滅亡のあと、頼朝は駿遠一帯に勢力を拡大した甲斐武田の一門を恐れるようになり、日増しに圧迫を加えてきた。元暦元年(1184)、 信義の長男・一条忠頼を鎌倉に招いて謀殺、その弟・板垣兼信、武田有義も次々に消された。そして、駿河守を解かれた信義は、白山城下の居館 (武田信義館) で、文治2年(1186)3月9日、59歳で没した。
その後は、氏族武川衆の青木氏、山寺氏が相次いで守り、戦国期には武田氏の領国経営の烽火台ネットワークの拠点的城郭として、 枢要な位置を占めていた。
江戸初期寛文年間(1661~72)に廃城となった。
『「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「現地説明板」より』

現況・登城記・感想等

白山城址は、遺構の保存状況が実に良好で、規模は小さいながらも中世山城の面影を偲ばせてくれる城址である。
尤も、土塁や、横堀等の遺構からして、信義時代のものはほとんどなく、戦国期、或いは江戸初期に改修されたものであろう。
本丸・二の丸・三の丸の主郭部周辺は整備が行き届き、土塁、虎口、空堀(堀切・横堀・竪堀)等の遺構を見ながら気持ちよく散策できる。
また、登城道にも土塁・虎口・空堀・竪堀等の遺構が何箇所も確認できる。
登城前には、古い時代の城なので遺構はあまり期待していなかったが、これがなかなかどうして素晴らしく、得をした気分だ。
(2009/06/07登城して)

ギャラリー

縄張略図(現地本丸跡説明板より)

山腹にも残る土塁・虎口・空堀
神社脇から遊歩道を登ると、途中にも多くの土塁や竪堀等に出会う。 当城は放射状に多くの竪堀が掘られているのが特徴のようだ。

二の丸への虎口
二の丸への虎口は、喰い違い虎口になっている。正面土塁左下が二の丸。土塁上が本丸で右の方に虎口が見える。

二の丸
㊧二の丸も元々は土塁で囲まれていたようだが、今は北側(写真奥)に残っているだけである。 ㊨は本丸から二の丸を撮影したもの。
 

本丸枡形虎口
本丸への虎口は内枡形になっていたようで、四角形の窪地になっている。

本丸
本丸は約25m四方で、周囲を高さ1~2mほどの土塁で囲まれているが、 特に西側から南側にかけての土塁は良好に残っている。本丸西側隅には、説明板と縄張略図板が設置されている。

本丸西側の横堀
本丸西側(説明板裏の土塁下)には横堀が良好に残っている。堀の北側は狭い削平地(広い土塁?) になっているが、何らかの建物があったのかも?また、土塁上から本丸へは堀の北側に土橋が架かっている。
 

三の丸(本丸土塁上から撮影)
写真奥が三の丸。本丸(帯曲輪)と三の丸間は堀切で断ち切られ、土橋で繋がっている。本丸へ来るには、 この土橋を本丸(手前)側へ渡ったあと、東(写真右)側へ廻り込まないと入って来れないようになっていた。

本丸(帯曲輪)と三の丸間の堀切(本丸土塁上から撮影)

㊧本丸(帯曲輪)と三の丸間の堀切、㊨そこから山麓へ落ちていく竪堀
土橋両側の堀切は竪堀となって山麓へと落ちている。㊧は、堀底から土橋東側の堀切を撮ったもの。㊨は、 そこから山麓へ落ちていく竪堀。
 

三の丸の蔵跡
三の丸の北東隅に内枡形虎口のようなものがあったが、縄張略図板には「蔵跡」となっていた。 発掘調査跡なのだろうか?

三の丸西側の横堀
三の丸の西側には空堀が良好に残っている。

三の丸北側の堀切
三の丸の北側にも堀切が切られ、その奥にもう一つ曲輪があったが・・・?

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